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2015年5月

2015年5月15日 (金)

歩く瞑想、マインドフル太極拳

最近朝日が昇るのが早くて早起きになる。

小鳥の声に誘われて6時過ぎから朝のお散歩、ウォーキング・メディテーション。

今朝は親水公園を本一色方面へ歩き、
線路沿いに出てから新小岩公園まで足を伸ばし、
1番大きな木とハギング・メディテーション。

木と共に自分のエネルギーが上に伸びていくのがわかる。

そして、久々に太極拳やってみました。

実は近所の公園で何年も続けていた朝太極拳、参加者のおばちゃんたちの体よりも口ばっかり動いている全然マインドフルじゃない態度にうんざりしちゃって自然消滅してしまってました。

太極拳サボって数ヶ月。

先日富士山のリトリートで美しい富士に向かって太極拳を奉納しようと思ったら結構型を忘れかけてて、しかもしっかり筋肉痛になってしまった。

毎日やってるとそんなに体力使うものとは感じられないけど、やっぱりかなり筋力を使うんだってことが改めてわかった。

教室に通わなくなって早10年も経つから、かなり我流になってるかも。
先生が見たら嘆くかも。

何とか朝太極拳のリズムを復活させたいな。
とりあえず明日はもっと早く出かけてみようか・・・。
(いや、明日は雨か?)

太極拳や気功はマインドルルネスそのもの。

今ここの自分の身体、呼吸、大地、空気、そよ風、鳥の声、いろんなものに気づきます。

早朝マインドフル太極拳&樹林気功、一緒にやってくれる人募集中。


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2015年5月11日 (月)

カチカチ山

リトリートにいらした僧侶団、彼ら彼女らの立ち居振る舞いはとてもゆっくり穏やか。

その姿に感動している参加者は大勢いらした。

・・・でも、私の中では、ちょっと違和感。

ホントーにいつもへそ曲がりなんだよ、わたしは。

その穏やかな姿は、なんだか世界の半分しか表現していないように感じられた。

この教団が育ってきた背景にはベトナム戦争があり、反戦運動としての個々人の心の中の平和を築くことが大切だという考えがベースにある。

だからこその、一歩一歩の歩みのうちに自らの平和を感じよう、となる。

それは大いにわかる。

だけど、要するに、物事は単独では成立することはできず、戦争や物質主義・行き過ぎた経済至上主義へのカウンター・カルチャーとしてのひとつの在り方なのだ。

僧侶団の茶色い法衣は大地に根ざして生きることの象徴であるという。

なるほど。

でも、人類全員が茶色い服着て、みんなが静かに穏やかにゆっくり歩いている世界を想像すると、つまんないな~と思ってしまう。

どこか未来に幸せを求めていつもアクセク速足で歩くのを止めることには意味がある。

止まる練習、とても大切。

でもそれらはマインドフルに、今ここに落ち着くためのトレーニング。

自動車教習所でハンドルさばきやアクセルの踏み方をひとつひとつ習い、最初はノロノロと運転してみる。

それが出来たら、常にゆっくり動作する必要はない。

サッサと歩いたり走ったりしても、マインドフルネスでいることはできるはず。

そういう生き生きしたマインドフルネスがいいな~、わたしは。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

Img_0725_2 リトリートの後、河口湖畔からカチカチ山ロープウェイに乗ってみようと思った。

結局時間を気にしてロープウェイには乗らなかったのだけど、入口におとぎ話のカチカチ山のストーリーを説明した絵と、ウサギがタヌキを復讐するために作った泥舟のオブジェが飾ってあった。

心の平和を築く5日間の瞑想合宿直後に、考えてみれば残酷極まりない復讐物語の造り物や説明を目にして、苦笑せずにはいられなかった。

富士山が世界遺産となって、外国人観光客も押し寄せているご時世にこんな身も蓋もないようなお話の模様を自慢気に飾ってしまっていいんかいな???

だけど、やっぱりなんだかすごく可笑しくて、つい、写真を撮ってしまいました。

 Img_0724

調べてみると、最近のカチカチ山のストーリーは随分と柔なお話に変えられてしまっているらしい。

おばあさんはタヌキにいじめられるけど死ななかったり、ウサギがタヌキを懲らしめた後にはタヌキが反省して仲直りしたり。

・・・う~~~ん、それってどうなんだろ???

カチカチ山に限らずに、おとぎ話はだいたい残酷なものが多い。

それを河合隼雄氏は、『昔話の深層』の中で以下のようなことを書かれている(「おしえてgoo」からの孫引き)。

・・・現代人はあまりにも合理性や道徳性などで防衛されているので、怖れおののく事がほとんどなくなってしまった。このような態度が端的に表れているのが死に対するあり方である。医療は病を駆逐し、可能な限り長生きできると信じ、死者には葬式という演出で出来る限り死に対して近付かない(目をそらす)工夫をしていると言ってもよい。

・・・しかし死は存在する。昔話の怖さは死を忘れようとしている人たちに人生における戦慄をあらためて体験せしめる。これは子供が大人になるための大切な要素が組み込まれています。背後にある死の元型の力によって凄まじいものにならざるを得ない。

河合さんは既成の道徳の鎧によって心の動きをおおってほしくないと考えています。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

もちろん戦争が必要なんていうつもりはないけど、世界は常に光と影がある。

どちらも表現されている世界が私は好きだ。

そこでまたまたヘッセの『デミアン』を思い出す。

『デミアン』では神的なものと悪魔的なものとを結合する象徴的な使命を持つ一つの神の名として「アブラクサス」なるものが出て来る。

そう、やっぱりそれ。

私は自分の中にある邪悪さに気づき、自分の中の邪悪さに微笑み、抱きしめたいと思うのだった。

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2015年5月10日 (日)

私は私だけの道を歩む

合宿会場では偶然にお会いした知り合いが数名いた。

中で一人、因縁の友と再会した。

長年私のブログを読んでいてくれる人には何年か前にも登場した人。

大喧嘩して、3年後に仲直りした。

お互いに歩む道は全然違うし、一緒に何かを出来るとも思えないし、あまりに本音でぶつかってくるので一触即発の危険性があって、こちらからわざわざ連絡する気もない。

でも、結構いつも気になっていて・・・。

以前はごくご近所さんだったから、たまに道端でばったり会った時に延々長話したりした。

でもこの2年くらい全く出会わないから、きっと引っ越したんだろうな~と思ってた。

二人とも似たようなワークショップやセミナーや聖地に行ったりするのだけど、その度にその純粋性にお互いに疑問を感じ、彼女は私の死角を容赦なく突いてくる。

だけど、そこまでぶつかるのは、お互いに本当に純粋なものを求めているから。

なんでそんな特別なことするの?
どうしてそんな遠くまで行くの?
本当は何も要らないのに・・・ってお互いに思ってる。

会場で彼女を見つけて声をかけると、彼女は苦笑い。

だけど、話し出すと止まらない。

そして、休憩時間に顔を合わせる度に、「どう?」とちょっと意地悪な目をしながら、お互いの感覚を確かめ合う。

そんな彼女に、どうしてこの合宿に参加したのか訊いてみた。

そしたら、偶然Eテレの「こころの時代」を見て、「えっ!?これは何??!!」とビンビンにハートに伝わってくるものがあって、プラム・ヴィレッジに行かなきゃダメかなと思ったけど、1ヶ月も休むのは大変だし、先ずは日本で行なわれる集まりに参加してみようと思って合宿に申し込んだ、と。

「私、あの番組見て泣けちゃったよ。言葉がどうのとかじゃなくて、ティク・ナット・ナンの存在と番組全体から伝わって来るものがすごくて・・・」と言うと、彼女も「私も!」、と。

そうなんだよ!

やっぱり一番大切なものはその人の存在そのもの、プレゼンスしかないんだよね!と。

いつもお互いに毒舌なのだけど、肝心のところでは、言葉以前の、言葉以上のものを感じ取る共通した感性を持っている。

それに、感動してしまった。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

リトリートで、5つのマインドフル・トレーニングを受ける申請と証明書の授与式があった。
5つのマインドフル・トレーニングとはすなわち仏教の五戒のこと。

仏教において在家の信者が守るべきとされる基本的な五つの戒とは以下のこと。

    不殺生戒(ふせっしょうかい)
    不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
    不邪淫戒(ふじゃいんかい)
    不妄語戒(ふもうごかい)
    不飲酒戒(ふおんじゅかい)

それを規則や禁止としてではなく、マインドフルに生きることで自然に起こる気づきとして実践することを誓う。

リトリートのテキストに載っている文章も、現代風に洗練された言葉で現代に相応しい形でいのちを与えられている。

 1.いのちを敬う
 2.真の幸福
 3.真の愛
 4.愛をこめて話し、深く聴く
 5.心と体の健康と癒し

それはマインドフルに生きる決意表明みたいなもので、それは要するに「受戒」であり、仏門に入った証であり、戒律を守るとしていわゆる「戒名」が与えられる。

参加者400名のうち約270名が受戒した。

でも、私はしなかった。

五戒を心がけることはできるけど、誓えないし。

それを受けることでどうしてもある種の枠組みに縛られ、在る種の色を帯びてしまう気がして息苦しくなってしまう。

ほとんどの人はそれを受けるだろうから、それを受戒しないことには勇気が必要だった。

そして受戒のセレモニーの後にはサンガ達の連帯感は一層深いものとなった。

そこに乗れない私・・・。

苦しい。

でも、やっぱり自分に嘘をつきたくない。

私は本当に自分の心の中から湧き上がって来るものに従いたい。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

一人になってから、ふと、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を思い出した。

『シッダールタ』は『デミアン』と並んで私の座右の書。

この小説の中のシッダールタは歴史上の人物ではなく、空想上の、悟りを求めて彷徨うあるバラモン僧の話。

シッダールタは出家して熱心に修行を続ける中で、覚者と出逢う。

その覚者は言葉だけはなく、その話し方、髪の毛から指先、歩く姿、その存在全体から本当に目覚めた者の姿を体現している。

シッダールタはその姿に感動する。

シッダールタの親友ゴーヴィンタは覚者の素晴らしさに心打たれて覚者の弟子となるが、シッダールタはそれでもなお弟子となる道を選ばず、自分自身を知るために別の道を行く決心をする。

そして、僧侶の道を歩むことを止め、一般世間の中で生きる道を選ぶ。

その後、人生のあらゆる喜怒哀楽を経験しつくし、最後は川の渡守となって、川を見つめるうちに悟りに至る。

その物語を思い出して、私はこれでいいんだと、確信した。

そして、いつも人生の重要な局面で私はヘッセの魂とつながっていると自覚した。

ヘッセは私のSpiritual ancestorだ。

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2015年5月 9日 (土)

いつもそこにある

合宿で一番私をインスパイヤーしてくれたのは富士山だった。

高速バスの窓から富士山の雄姿が現れたときに「わぁ~!」と思った。

ホテルに着いて近所を散策し、建物の陰からその雄姿が現れると再び「わぁ~!」となる。

リトリートが始まり、歩く瞑想をしている時にまたその雄姿が現れると性懲りもなく「わぁ~!」となり、涙まで出る。

その度に、表情が違う。

見る瞬間瞬間に、何度も出逢う。

富士山とホリスティック・エンカウンター。

 

リトリート中、その集団のメインの盛り上がりには乗れず、一抹の物悲しさと共に会場を後にし、色々と物思いに耽りながら河口湖畔まで散歩する。

最終日の昼時には富士山は上半分を雲に覆われていた。

やっぱり私は私だけの道を行くのだと決意しながら河口湖駅まで戻る途中で、富士山は民家の陰から再び完璧な雄姿を見せてくれる。

それは、「あなたがどんな迷いの中にあっても、あなたが気づきさえすれば私はいつもここにいるよ」と伝えてくれている。

 
いつも静かに。

決して揺るがず。

常にあなたと共にここにいる。

 
とても深いスピリチュアルな体験であったと思う。
Fullsizerender

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2015年5月 8日 (金)

幸せの極意

Fuji01

5/2~6まで、富士山麓で開催された「ティク・ナット・ナンの教えを学ぶマインドフルネス・リトリート合宿」に参加してきました。

残念ながらハン師自身は昨年秋に脳出血で倒れられてしまい、彼のお弟子さんの僧侶団33名が来日してのイベントとなりました。

合宿以外にも一日のワークショップや講演会など、まだイベントは熱く進行中です。

で、私の体験レポートは、いつもながら、自分でも嫌になるくらい、大勢の方のものと違ってとても冷めたものになってしまうのですが・・・。

とはいえ、やっぱり、一番大切なこと、幸せの極意はしっかりしっかり身につけて帰ってきたと思います。

というか、合宿前から知っていたけど、それを徹底させるための良い機会を頂いたという気がするし、私にとっては合宿に参加すると決めたこと自体がマインドフルに生きることを自分に対して今一度決意表明する機会となったと思います。

マインドフルフルネスとはハン師の言葉では、「今この瞬間に気づいているエネルギー」のこと。

今この瞬間に完全に生きることができれば、今この瞬間に幸せになれるのです。

今この瞬間に十全に生きるために、呼吸に気づく。歩く時もその一歩一歩がその瞬間への「到着」であると気づくこと。

踏みしめる一歩一歩は大地へのキス。

思えば、2002年に私が初めて本格的に心理療法を学ぼうと思って参入したのがゲシュタルト・セラピー。

それは「今ここ」に気づくためのセラピーです。

私がゲシュタルト・セラピーを選んだのは、音がカッコいいな~と思ったのと、思考ではなく「今ここでの体験」を重視すること、そして「身心一如」、心と身体は二つの別々のものではなくひとつのものであるという考えに興味を持ったこと。

そしてゲシュタルト・セラピーは禅と実存主義の思想をベースにしたセラピーであること。

ゲシュタルトの創始者のフリッツ・パールズは「気づきそれ自身が癒しである」と言いました。

ただ、フリッツはかなり変なおやじで(エサレン研究所での嫌われ者だった)、意地悪く、人が生きながら眠りこけているのを見ると無理やり叩き起すみたいな強引なやり方をする人だった。

言ってみれば、日本の禅の「喝!」と警策で叩くような厳しさかな。

それに対してフリッツの弟子だったエサレン研究所の創始者の一人リチャード・プライスは仏教の慈悲の部分を取り入れた。

それを今でも受け継ぎ「ゲシュタルト・アウェアネス・プラクティス」として40年以上実践しているのが奥さまのクリス・プライス。

クリスの言う「呼吸に戻る」とか、自分の中のどんな感情にも気づいた時には呼吸と共に「ハロー」と言ってスペースを与える、とかは、ハン師から学んだのかな、と思った。

ゲシュタルトの気づきはどうしてもワークショップの時に限られてしまうので(もちろん生活の場の瞬間瞬間に気づきなさいとは言われる)、それをもっと徹底して24時間気づきに満ちて生きようとする実践がハン師が広めようとしているマインドフルネス。

合宿の内容はほぼハン師の著書『ブッダの幸せの瞑想』に載っているので、興味のある方は是非読んで実践してみて下さい。

実はこの本、昨年買ったのに読んでなくて、今回合宿に参加することを決めてから読みました。Eテレの「こころの時代」でハン師の優しさに満ちた存在感を実感してから読むと言葉のひとつひとつがまるで立ちあがって来るように具体的に伝わってきました。

 

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜
合宿の会場である富士山の緑の休暇村に到着する過程もマインドフルに楽しもうと思った。

GWの人込みでごった返す新宿駅西口で高速バスに乗り込み、ホッとして、さあ、マインドルネスと自分に呼びかけ、お気に入りの音楽をイヤホンで聴き始める。

もうその瞬間に私、既に泣いてました。

今ここの瞬間に幸せがギュッとつまっているんだと思うと、ものすごい宝物を見つけてしまった気がして既に幸せで満たされてしまう。

幸せになる極意は、今この瞬間に「あ、今ここで、幸せを感じよう」と思うことのみ。

そして自分の呼吸に気づく。

身体に気づく。

見えているものに気づく。

聞こえているものに気づく。

心の中に湧いている感情や思考に気づく。

そして、気づいたものに「ハロー」と言って微笑む。

(合宿体験レポートはつづく)

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