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2009年12月

2009年12月22日 (火)

「鬱の力」

私が心と身体のことに興味を持ち始めたのも、今の仕事をしようと思ったのも、きっかけはある時家族が鬱(うつ)になったから。

だから、私はこの仕事をやっていて、どんな人に来てほしいかというと、うつの人だったりする。

自分も性格的にうつになりやすい性分だと思っているし、どんな人がうつになりやすいかということも、どうすればうつが良くなるかも感覚的によくわかる気がするから。

そして、うつは実はそこに力を秘めているということも知っているから。

 
そんなわけで、五木寛之と香山リカの対談本『鬱の力』が目についたとき、読んでみようと思った。

冒頭ではこんな風に書いてある。

いままさに「鬱の時代」が始まろうとしている。

「鬱の時代」はこれから五十年は続くだろう。

鬱という言葉はもともと生命力を内に秘めた状態をいう。

鬱イコール悪ではない。

「鬱の時代」には、「鬱」のままに生きるべきなのだ

 
そうですね。。。

「鬱イコール悪ではない」というところに強く共感します。

うつを大切にしてほしいと思う。

五木氏は"「ちょっと鬱」くらいが正しい生き方"だと言います。

今までが浮かれすぎ、「躁」だった。

世間は「ちょっと躁」くらいの人が評価されてるように思う。

 

文明は鬱のなかで成熟する

これから先何十年かは、あらゆる世界の文明が穏やかな下山に向けて動いていき、それは躁か鬱かといえば、どうしても鬱の方が時代の主潮になっていき、鬱とはいわば「ダウンサイジング」である、と。

鬱というのは、これまで外に向いていた目が、自分の精神、魂、内面に向けられるということなのだ。

車の喩えでいうと、初心者が最初に関心を持つのはパワーであり、次にはハンドリングに関心が移って、最後に大事になるのはブレーキングなんだそうだ。

たとえばBMWの車は、制動をかけてスーッと減速していく、その背中から引っ張られるようななんともいえない気持ちのよさが、アクセルを踏んだときよりも魅力なのだと。

日本の戦後はいわばアクセルを踏む快感だけでやってきたけれども、これからは制動のよさみたいなものを目指すべきだと。

登山に喩えれば、登るときは頂上を目指すことにとらわれて周りのことをよく見る余裕がないけれど、下り坂がむしろ登山の醍醐味であり、下界も見えるし色んな高山植物の咲いているのなんかも見て楽しみながら下りていける。

登って下りて、はじめて登山は完結するわけで、そこまでが文化なのであり、日本はこれまでずっと登ってきたんだから、これからは「ゆっくりとエレガントに下りていきましょう」と。

はい、その辺、かなり同感です。

 

うつでお悩みの方、ぜひ私のところにいらして「うつの醍醐味」について語り合いませんか?

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2009年12月21日 (月)

たまちゃん物語

Sn3f0144_2 最近の私のアイドルは野良猫の
たまちゃん。

毎朝太極拳に通うついでに必ずたまちゃんと遊ぶ。

冬に入って寒くなり、たまちゃんがこの冬空の下で寝起きしてるかと思うと不憫でならず、ついついペット用の毛布を買っていつもたまちゃんがいる植込みの陰においてみた。

その辺りにある枯葉と同じような色の毛布なのであまり目立たなくていい感じ。

そのときはたまちゃんは留守だったので、はたしてこの毛布を使ってくれるかどうか心配だったのだけど、後で見に行ったらしっかりと毛布の上で丸くなっていてくれてとってもうれしかったhappy01

ところが、それから何日かしたら、その毛布の上に見慣れない柄物の毛布が増えているではないですかsign02

誰が置いていったのだろう?と思う。

 
毛布は雨が降るとびしょぬれになってしまうので、そのときは仕方ないから家に持って帰って乾かしてから元の場所に戻す。

ある雨の日、「あ~また毛布ずぶ濡れだぁ。取りに行かなきゃ」と思っていつもの場所に行ってみたら毛布がないsign03

たぶんもう一人の世話人さんが持って帰ったのだとは思うけど気が気じゃない。

翌日の夕方、ちゃんと戻ってた。

ほっとした。。。

  

そんなこんなしているうちに、ついにもう一人の世話人さんとばったりとお会いすることができた。

初老の女性で、だいたい夕方近くに通って来るらしい。

私は朝が多いからなかなか会えなかったのだ。

 

そこで、たまちゃんの素性が明らかになった。

 

たまちゃんはその女性(仮にAさんとする)の家の外ネコとして1年くらい暮らしていたらしい。

というのはたまちゃんの元々の飼い主がAさんの家の近くにたまちゃんを捨ててしまい、Aさんは家の中で犬を飼っているため家の中には入れられないので家の外でたまちゃんの面倒をみていらしたんだそうだ。

ところが、ご近所の方がネコ嫌いで、勝手にたまちゃんを今のところに捨てちゃったんだとsign03

2度も捨てられてしまうなんて、なんて可哀そうなたまちゃんcrying
 

ネコ嫌いのおばさんから「私が捨ててきました」と告げられたAさんは、なんとかその人から捨てた場所を聞き出してあわててこの辺まで探しに来て、やっと再会できたんだそうだ。

でも家に連れて帰るわけにもいかないので、仕方なく、家からは少し離れてるこの辺りまでほぼ毎日たまちゃんの世話をしに通っているんだそうですweep

たまちゃんに会うたびに「ごめんね、ごめんね」とお詫びしつつ。

 

たまちゃんは、本当は「しろちゃん」と言って、歳を取ってるから「しろばあ」なんて呼ばれていた。

たまちゃんは本当に頭がよくて気が優しいんです。

Aさんの話では、親猫がいなくなってしまった乳飲み子の仔猫をたまちゃんが代わりに育てたりしてたらしいです。

そして、2度も捨てられてしまうというひどい目に合っているにもかかわらず、今も人間に心を開いているたまちゃんはエライです。

 
そんなたまちゃんの人生(猫生)を聞いているうちに、いつもたまちゃんの面倒を見ているつもりの私は、実はたまちゃんに面倒みられてるのかもしれないな~と思うようになった。

 
さて、それで、たまちゃんの毛布はその後進化して、針金の網を丸く筒状にしてその周りに毛布を巻き、外からビニールでくるんで更に目立たないように茶色の毛布を上にかぶせた屋根付きのお家となりました。

Aさん作です。

たまちゃんはすっぽりとそこに入って暖を取ってました。

が、先日の雨のときに一度引き取られてもう一度設置された後には、どうも形が変形して小さくなってしまって、たまちゃんはお家に入ることができずにお家の外で寝ているのを発見。

 

Aさんとはその後も会ってないので、Aさんの力作のお家に手を加えることは気が引けたけれど、やっぱりたまちゃんが入れないのではあまりに可哀そうなので、昨日、こっそりと私の家に持って帰り、ダンナにもうちょっとスペースを取れて変形しないように作り直してもらい、夕方までにはまた元の場所へ戻しておきました。

お家がしっかりした分、以前よりもちょっと目立ってしまうのが玉に瑕。

でも今のところできる限りの対処です。

夜、偵察にいったらたまちゃんはちゃんとお家の中で丸くなっていてくれて、うれしいったらありゃしない。

ま、これもかなり自己満足で、たまちゃんはお家があろうがなかろうが、それなりに寒さを凌ぐ方法は知っているのだろうけど。。。

 

今朝、またたまちゃんのところに行くと、なんと、ちょっと目立ってしまうことが気になってたあたりが造花の葉っぱで目隠しされるように細工されていたsign03sign03

「敵もなかなかやるなぁ(敵じゃないけど)」とたいへん恐れ入りました。

 
こんな風にみんなに愛されてるたまちゃんは世界一幸せな野良猫ですcat

cat cat cat cat cat cat cat cat cat cat cat cat

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2009年12月19日 (土)

百不当

昨日のくりのみ会、道元とカウンセリングで教わった言葉。

百不当

意味は、講師の菅原先生によれば

道元禅師が用いられる言葉で、百回当てようと思っても結果に当たらないが、百回当てようと思い修行しなければ、絶対に当たらないこと。今時使われる「やれば報われる」という楽天的発想に警鐘を鳴らすものとして理解して良い。要するに、「やっても報われない、でもやらねば報われない」という発想になる。 つらつら日暮らしWikiより

この話題が出たのは最近流れているNTT東日本のCMの話題から。

野球少年が「ぼく、イチローみたいになれるかな?」とお父さんに問う。

お父さんは

「なろうと思ってなれるものじゃないよ。

でもな、なろうと思わなきゃ何にもなれないよ。」と答える。

 

なんだか、いい言葉だな~と思う。

 
希望を持ってたくさん努力して、でもそれが報われずに挫折して・・・

その先に、あるみたいだ、大切なものが。。。

 

ところでこの話、わかりやすく説明するために、宝くじをいくら買っても当たらないけど、買わなきゃ絶対に当たらないという話になぞらえたときに妙に実感を伴って納得したhappy02

☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

 
ところで、禅の悟りというものは、何か特別な霊的体験を期待すると失望するらしい。

たぶん自分の暮らしてるごくごく日常的なこと全ての中に当たり前のように霊性が秘められていることを直覚的に感じるのだろう。。。

この2~3日、また神智学とかを勉強しようかな~なんて気分になってたので、ちょっと自分の中でのバランスが必要だなと思った。

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2009年12月18日 (金)

ギャップ

昨日、以前勤めていた会社のOB会(と言っても集まったのは4人)に行って来た。

ときどきお声がかかるのだけど、その度に私は参加を躊躇する。

だって、他の人たちはその業界(製薬)の最前線で活躍しているのに私はそこからリタイヤしているので今さら話題についていけない。

それにみんな年収1千万以上はもらっているだろう人達なので、指定されるお店も今の私にとっては高級すぎて会費を払うのも大変(^_^;)

今回も「私は慢性金欠病なのでぜひとも庶民的なお店にして下さい」ってお願いしたのに、指定されたお店は西麻布の小洒落たレストラン。

まあ、わがまま言って思いっきり会費優遇してもらったけど・・・

 
参加者の一人は前日アメリカ出張から帰ったばかりでこの日も最終の新幹線で京都に向かうという。

会食中も何度も携帯電話が鳴って席を外してた。

なんて忙しいの・・・

そんな人たちとの話の中で、芸能人の名前とかが出ても私には全然わからない。

「あの・・・、私あまりテレビ見ないんで・・・」

あまりの世間的常識のなさにあきれられ、

「ねぇ、普段何してるの?」と問い詰められ

「あれぇ?私っていつも何してるんだろう???」と不安になる。

 
野良猫と遊んでるかな~~~(^_^;)

本は読んだりしてるけど、

結構ぼぉ~っとしてるかも。

 
なんだかヤバイ気分になる。。。

 

まあでも、私の役割は、そういった社会の最前線で活躍してる人が疲れてしまったときや、行き詰って身動きできなくなったようなときに駆け込んでもらう駆け込み寺のようなものだから、いいんだよね、これで。

一方、一昨日には今私の関わってる業界の先輩とお食事をして、専門的世界の話に花が咲き、気がつけばお店の閉店時間を過ぎていた。

身体のこと、病気の意味、生死の意味、魂の目的、遠隔ヒーリング、神智学、アリス・ベーリー、十牛図、道元・・・・etc., etc.

製薬業界の人たちにこんなことをどうやってわかってもらえばいいのだろう?

こっちの世界とあっちの世界をうまくつなげることができたらいいのにな。。。

 
もしかしたら、それをするのが私の使命なのかも、な~~~んちゃってbleah

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2009年12月14日 (月)

「自力と他力」

五木寛之の『自力と他力』を読んだ。

いつもくりのみ会の親鸞とカウンセリングのクラスで「自力と他力」の意味がわからなないという話がでる。

特に、参加者は長年学校の教師をしていた人とかが多いせいか、自分で努力することや理論的・合理的に理解するということが染み付いているみたいで、おかしいくらい毎回「他力の意味がわからない・・・」となる。

まあ、真宗の教えは、というより霊性というものは、いくら頭で考えてもわかるようなものではないと思うので、あまり真剣に議論したいとも思わないのだけれど、この五木さんの文章で「なるほど」と思う記述があったので書き留めておこうと思った。

他力は自力の母である、と私は思っています。自分を信じてがんばろう、と決意したとき、その気持ちが訪れてきたことこそ他力の働きではないでしょうか。 P16

そうすると、私たちはどんなことがあっても仏様の掌の上の孫悟空みたいなものなんだなぁと思う。

何か大いなるものに身を任せていると、力が抜けてリラックスする。。。

 
また、本書の中で「自分」というものについて、野口体操で有名な野口三千三さんの言葉を引用してこんな風に書かれている。

(野口三千三氏は)「自分探しとは近代の病である」と言い、そして自分とは「自然のなかの一部分」であるといいました。自然の「自」と、一部分の「分」で、自分だと言いきったのです。そう考えると、近代以降多くの人が模索し、いまも模索しつづけている"自分とはなにか"という大命題は、単純明快になる。  P153

なるほど。。。

私もすぐに自分探しを始める性分なのだけど、最近少しだけ感覚的にわかってきた。

自意識がなくなっているときが一番平安な気分になれる。

そういう時間をより多く持てたらいいな、と。

 
ところで、私が浄土真宗に興味を持ったのは今年の3月くらいからだ。

くりのみ会で4月から「親鸞とカウンセリング」というクラスを始めると聞き、仏教や禅に関心はあるものの、さすがに浄土真宗まではいいや、と思った。

ちょうどその頃、映画「おくりびと」を観て、原作「納棺夫日記」を読んだら、その本の中で著者の青木新門さんが浄土真宗の信仰に目覚めていかれた経緯が書かれており、更にその本の中で高史明氏に言及されていて、高氏を尊敬されているという。

高史明氏といえば、私が中学生のとき高氏の「生きることの意味」という本を読んだがいまひとつ意味がわからず、その後高氏の自殺された長男の残した手記「ぼくは12歳」も読んでいたので、高氏という名前は私には縁を感じるものだった。

高氏が浄土真宗に帰依されたのも息子さんの自殺がきっかけだったらしい。

それで、くりのみ会の親鸞とカウンセリングのテキストが高氏の「現代に甦る歎異抄」だというので、これは何か私に呼びかけられているような気がしたのだ。

 
五木寛之氏についても最近ちょっと気になっていて、氏の本を読んでみようかな~とは思いつつも、あまりにも有名な人なのでちょっと敬遠していた。

だけど、先日ある人から「五木寛之の本を読んで・・・」という言葉が出てきたので、ああ、今読むときなんだなぁ~と思った次第。

五木氏も50歳くらいで浄土真宗に出会い、帰依するようになったらしい。

今年は、浄土真宗に出会った年だったなぁと思う。

とはいっても、私も普通の人と同じように抹香臭いものはあまり好きじゃないし、組織的宗教なんて大嫌いだから、私なりの他力思想について、私なりの霊性について一歩歩みを進めたかなぁ~~~と思ってる今日この頃ですhappy01

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2009年12月12日 (土)

世界の美しさに酔う

バイオダイナミクスの施術のせいで体が開き、トムの話のせいでハートが開いているせいか・・・・

今日、江戸川文化センターでN.Y.ハーレム・シンガーズのクリスマス・コンサートというのがあって、太極拳の参加者の方のコネで無料で観覧できることになり何の期待も予備知識も持たずにコンサートに行ったのです。

曲目はゴスペル、ジャズ、ソウル、ヒップホップといったものなので、およそ私の守備範囲ではないんだけれど、第一声を聞いただけで涙が出てしまい、「人の声」の癒しのパワーにひれ伏すことになりました。

そのうちこの音楽の波動と同調してからは涙も止まり、音のシャワーの中であれこれ考え事などしつつ時間を過ごしていたのだけれど、コンサートの終盤で、日本人の一般の人たちが100人ほど舞台に上がっての大合唱となり、そのひときわ大きな声の波動にまたしても涙が出て、それからはもう涙が止まらなくなってしまいました。

なんなんだろう、この涙は?

心で感動するよりも早く体が反応してしまう。

たぶん、「全体性に還る喜び」なんだろうな~なんて思う。

 
それにしても、人の声ひとつがとても美しく、ピアノの音ひとつがまた美しく、100人の素人コーラス団に向かって指揮する女性の姿がまたまた美しく。

あ~~~、なんて世界は美しいもので溢れているのだろう!!!と思って、また感動してしまいました。

 

そう思いながら、そういえば昨日だか、トムが「ロロ・メイ」って言葉を口に出してたことを思い出した。

通訳さんはその言葉を翻訳中では飛ばしちゃったけど、たぶんあのロロ・メイだ。

私、ロロ・メイの「美は世界を救う」という本を持っていた。

ほんのちょっとしか読まずに積んどくされたままだけど。

 
トムが「相手の中の美しさを見つけなさい」と言ったのも、ロロ・メイの影響があるのかもしれない、と思い出し、本棚に飾ってある本を引っ張り出して読んでみようと思った。

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2009年12月11日 (金)

無償の愛

引き続きバイオダイナミクス・セミナーでの話。

以下は、最終日の朝、ある人の質問に対するトムの答えからの抜粋。

「バイオダイナミクスの治療では、我々は何かの意図を持ってやっているわけではなく、唯一その人の中の叡智がやろうとしていることをそのままにしてあげたいだけである。

施術者としても「助け」を求めている、あるいは「祈っている」ようなものだ。

施術者自身、患者を助けるための十分な技術を持っているわけでもなく、プロセスを支えるに足る十分な愛を持っているわけでもないので、「助け」を求めるわけである。自分以外のところに。

「助け」というのは常にあって、それは我々よりも常にクリアでパワフルなものである。

それは決していなくはない。

ただ、我々がそこから分離してしまうだけである。

でも、それでも「助け」はそこにいる。

それは、天使やら人やらというものではなく、何かの「存在」(あるいは存在性)なのだ。

多くの人たちが信じていることは、我々が地球という3次元の世界にいるのは我々が別個の存在としてあることに感謝するためだということだ。

別の次元(4次元とか5次元とか)では我々は別個の存在ではなくなっているし、別個に存在することはできない。

 
我々は、神の愛やサポートから分離することは決してない。

ただ、私たちの幻想が、私たちを分離し独立したものとして現している。

何か問題が起きたりすると、「助け」から更に自分を離してしまう。「助け」を求めるのとは逆に。

 
ただ思い出せばよい。

毎日の、その瞬間瞬間に愛によって包まれていることを。

ブレス・オブ・ライフ(神の息吹)とブレス・オブ・ラブ(神の愛)がどの瞬間も常に自分の中に吹き込んでいなかったら我々はすぐに死んでしまうはずである。

我々はそのことを学ばなくてはいけないのだけれど、そのための小さなステップがバイオダイナミクスなわけである。

いろんな場面でいろんな条件を与えられ、小さいなテストをされつつ、そのうち「これしかありようがない」というところまでたどり着くまで、ひとつの"HOME"に戻るための道のりを探さなければならない。

患者が家に帰るための道のりを探してあげなければならない。

100回中99回は家(home)から遠ざかる方向へ向かっていってしまう。

だがその99回目がいつかはわからない。

もしかしたら99回目の治療をしたときにその患者はHOMEへ帰るということが起こるかもしれない。

 
そのうちわかるようになると思うけれども、実は我々が「助けてもらう人」で自分自身が「患者」である。施術者としているけれども。

なので、我々は「何もしていない」ということ。

でも、心を開いて奉仕をしていれば多くのことが起こり得る。

邪魔をする度合いが少なければ少ないほど、そのプロセスの仲間に入れてくれてより多くのことを観察させてもらえる。

その様というのは信じがたいほどのことなのだ。

 
病気に戦いを挑むのではない。

健全(HEALTH)をサポートするのだ。

もともと起ころうとしていることをサポートしようとしている。

 
だから、何でも扱うことができる。

バイオダイナミクスではこういう症状は治療できますか?こんな症状はどうですか?という質問をよく受けるけれども、何でも治療できて、しかも助けになる。

たいがいの場合は助けになる。

・・・他に質問は?

この言葉を聞いていて、私は目がウルウルになった。

この日記用に文章起こしをし、これを読んでいる今も涙が溢れ出る。
 

まさにHOMEを思い出している感覚だ。

 
内容的にはスピリチュアルな世界では割と一般的な事柄だと思う。

でも、それを誰が、どんな風にいうかで全然違ったものになる。

 
非常に気高い志の下にバイオダイナミクスは息づいている。

その末席に座らせていただけたことに深々と頭を垂れたい。

 

この話の後、後頭骨、側頭骨、蝶形骨の骨内の動きを感じるエクササイズに入っていったのだった。。。

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2009年12月10日 (木)

ディープな4日間

トムのバイオダイナミクス・フェーズ1、ディープな4日間が終わった。

定員24名のはずが蓋を開けてみれば36名という大所帯クラス。

しかもまだ今回のセミナーに希望したのに入れなかった人が10人くらいいるらしい。

なんとか滑り込みで入らせて頂けたのは本当にラッキーだった。

神様に感謝!

 
セミナーの最後には36人全員の身体の調子をチェックしてくれた。

みんなの身体の状態のベース・ラインを知りたいと。

そして、セミナーのあと、来たときよりも良い状態で帰れるよう、

よくあるクラニオ・セミナーの後のように壊れて帰らないように、と。。。
 

トムの施術はあっという間。

あんな風に緻密にいろんなことがわかってトリートできるなんて、

とても私にはできそうにないよ。。。

 
この4日間の成果か、今は頭頂部がかなり大きく開いてる気がする。

天から何か降って来そうだ。。。

☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

 
トムの講義はとにかく密度が濃い。

そして、オステオパシーとバイオダイナミクスに対する深い愛と、これを本当に学びたい人に教えたいという強い情熱を感じた。

何しろトムは学生のうちからお金をもらって教え始め、米国のオステオパシー大学の教授やオステオパシー団体の理事などを歴任し、人気ナンバー1教授に選ばれながらそのポジションを捨ててフリーとなり、今では世界中で真のオステオパシーであるバイオダイナミクスを教えるために奔走している。

バイオダイナミクスは米国のオステオパシーの大学院レベルで教えられている内容なのだ。

でも、現在のシステムの中でいくら教えても本当に情熱を持って習い、それを使ってくれる人がいないことをとても嘆いている。

だったら、本当に必要としている人に教えよう!という素晴らしいけどとても勇気のいる決断をされて現在に至っているわけだ。

 

トムのセミナーは、なんと講義内容の録音OK、ハンドポジションなどの写真撮影もOK、ととても寛容。

自分の持ってる専門知識にもったいつけて妙な秘密主義を押し付けることもなく、こだわりがない。

人間の器の大きさを感じる。

トムは、真に「ワンネスの感覚」を知っているのだろう。

 
講義中、突然ドスピ(超度級スピリチュアル)な話なども出てくる。

でも、それが浮ついた感じが全くなく、言葉に確信があり、聞いている方もすごく素直に聞いてしまう。

 
日本人はあまり質問をしないということを知っていて、それはあまり好ましくは思ってないようだけど、今回の参加者は次々と質問をしたので、トムはとても喜んでいたようだった。

ひとつの質問をすると5倍も10倍もたくさんの答えをくれる。

情報量が多すぎて、聞いてる方の頭はいつしかパンパンになる。

でも、録音してあるから、これからBGMのようにずっと再生しながらこの4日間に得たものを振り返ってみよう。。。

 
トムの講義内容の濃さに比べて、それを実技でどれだけ再現できるかが、実は大問題なわけで・・・。

私が森川さんに習ったクラニオ・バイオとはやはりアプローチの仕方が大分違い、ちょっと面食らう。

だけど、F.シルズ派のやり方も非常に役立つ方法であると私には思えて、結局私は私流を作っていくことになりそうだなぁ~~~

ここで技法の違いについて書くわけにもいかないから、興味のある人はこっそり私に連絡してくれたら、こっそり教えます。ドスピな内容も含めて(*^_^*)

Usagi002

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2009年12月 8日 (火)

海の見えるセミナー会場から

Ooiso
今日の講義の中でのお気に入りの言葉

相手がニュートラルに入っていくのを観察する実習のとき、

「まず、相手の中にある何か美しいものを見つけてそれにシンクロしなさい」

と言われたこと。

それってハコミのラビング・プレゼンスと一緒じゃん!と思ってうれしくなった。

それと、ある人からの、「自分が施術者側のとき、悲しいとかの感情を感じてるわけでもないのに何故か涙が出たのだけどこれは何なのでしょう?」との質問に対するトムの答え、

"It's recognition of Home."

う〜ん、すごくわかる気がする。

何か大切なものに触れている感触。

魂の故郷を感じているような…。

私にもよくそういうこと起こる。。。

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海〜!

Sn3f0137
バイオダイナミクスのセミナーが行われてるのは大磯プリンスホテル。
海からの日の出が美しい。

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2009年12月 7日 (月)

新たなスタート!

今日から12月10日まで、トム・シェイヴァーD.O.
バイオダイナミクス・フェーズ1セミナーの合宿に行ってきます。

思えば、2001年にはじめてふじ治療院でのオステオパシーの治療を受けたことが私のボディワークへの本格的な興味の始まりであり、そのふじ治療院の藤村先生がずっと師事していたのがトムだった。

だから、いつかトムのバイオダイナミクスを勉強してみたいというのは私のあこがれでもあった。

バイオダイナミクスの深遠な哲学、そしてそれを身体で体験できることの喜びと楽しさは私を惹き付けて止まない。

だけど、タイミングが合わなくて、トムのバイオを受けるのは一旦あきらめ、他の先生を探してクラニオ・バイオダイナミクスの勉強に本格参入した。

だがしかし・・・、先生である森川ひろみさんが突然お亡くなりになってしまった。。。

予想もできない事態に直面し、私はこの先どこへ行けばいいのだ・・・と一時路頭に迷った。

 
でもでも、結局、もともと受けたいと思っていたトムのところでもう一度最初からやり直すことに決めた。

最初に問い合わせたときには既に満員だということで断られたものの、後日、滑り込みで講習参加を許可していただけた。

 
トムの講習会事務局によれば、同じバイオダイナミクスでも流派が違うので内容はずいぶん違うというお話だ。

同じ単語でも表しているものが全然違ったりするらしい。

しかも、毎回セミナーの度に内容がバージョン・アップし、同じ単語の意味するものも微妙に変化していくということだ。

だから、「オープンマインドでいらしてください」と言われた。

 

森川さんの逝去という悲しい出来事を通しても、結局私は一番自分らしい道に戻ってきたように思う。

転んでもただでは起きないわたし。

そして、人生とは複雑怪奇、一筋縄では行かないものだ。。。

 
とにかく、また新たな出発にドキドキワクワクしています。

 

それでは、行ってまいります!

P.S. 

よって12/7~10は不在のためご連絡いただいてもお返事が遅れる可能性がありますことをご承知下さい。

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2009年12月 3日 (木)

ウルトラマン?

昨日の亀山湖の伝宝洞の写真、

90度傾けるとウルトラマンに見えるのは私だけ???

Pc010131

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2009年12月 2日 (水)

紅葉~ラスト・チャンス

Pc010143 昨日、関東で一番遅い紅葉mapleと思われる千葉県の亀山湖に行ってきました。

亀山湖の存在を知ったのは
ほんの3日前。

千葉市にお住まいの方が
「ハイキングで亀山湖というところに行ったら、千葉にこんなにきれいなところがあったなんて、っていうくらいきれいだった」とおっしゃるのを聞いて、本当は同じく千葉にある養老渓谷に行く予定だったのを急遽変更した次第。

まあ、驚くほど美しいとまではいいませんが、なかなか立派な紅葉でした。

歩きでは見れない奥深いところに遊覧ボートが出ているので、
それに乗って紅葉狩り。

楽陳でしたhappy01

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遊覧クルーズの終点の伝宝洞↓

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なんだかお着物の模様みたいです・・・↓

Pc010139_2

さあ、これで紅葉も満喫したので、今年の秋にさよならです。

そして、これからは冬を楽しむこととしましょうnote

   

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