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2009年11月 3日 (火)

『日本的霊性』

鈴木大拙の『日本的霊性』を読んだ。

とても興味深く、でもとても難しくもあり、後半は飛ばし読み。

私にとって「霊性」とはとても威厳あって尊い言葉だけれど、一般の人にとっては神秘的過ぎたりオカルトっぽいイメージだったりするのだろうか?

著者は「霊性」を精神と物質という2元の奥にあるもので、「なにか二つのものを含んで、二つのものが畢竟ずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るもの」であると言う。

霊性を宗教的意識と言ってもよいが、教条的なものや組織的なものと区別する意味でも霊性という言葉を使っている。

そして、興味深いのは、日本的霊性をもっとも顕著に表しているのが禅宗と浄土系思想だということだ。

私事だが、縁あって最近カウンセリング研究会「くりのみ会」の「道元とカウンセリング」や「親鸞とカウンセリング」のクラスに参加しているので、そのふたつがどちらも日本的霊性を顕著に表すものであるとの記述に「へぇ~~~~!!!」とかなり驚いたのだ。

くりのみ会主催者の鈴木さん、なかなかやるなぁ~と感心したりもした。

禅宗・浄土思想どちらも仏教であり、外来のものと認識されやすいが、もともとあった日本人の中の霊性の芽が育ち花開こうという内的エネルギーが高まったときに、ちょうどそのとき外からもたらされた禅宗や浄土思想をひとつの手段として表現されたのだという。

古代の日本には本当にいう宗教はまだなく、彼らはきわめて素朴な自然児だった。

平安時代に仏教が入ってきたがまだ日本的霊性の覚醒というには及ばなかった。

なぜならば、平安時代の貴族も仏教者も、大地に根ざしていなかったからだ。

鎌倉時代に入ってはじめて、日本人の精神に宗教的衝動が起こった。

宗教的衝動にはまず現実の世界の否定がなければならず、そこから現実を超えたものへの憧憬が生まれる。

ご存知の通り、その時代相次ぐ戦乱や飢饉で現実生活に対する絶望感も強かった。

また、武士は常に死と向き合う生活であり、現実を超えた世界に意識が向くのも当然といえる。

その時代に伊勢神道が起こり、他方には浄土系統の仏教が唱えられるようになった。

でも著者によれば神道はがんらい政治的思想であって、霊性そのものの顕現ではないとしている。(この本が書かれたのは昭和19年なので、時代的な影響もあるのかもしれない)

日本的霊性の特徴は、「大地性」。浄土宗は農民の間で広まったというのが特徴的。

そして概念的なものでない「日常性」。

浄土思想は日本的霊性の「情性的表れ」であり、禅宗はその「知性的表れ」だという。

両者は他力と自力という全く反対の思想のようであるけれど、その奥にあるものはどうやら同じようなものらしいことが本書を読んでいるうちに推察される。

大切なのは「無分別智」。

そしてどちらも自我を超えて対象とひとつになること。

南無阿弥陀仏と唱えるときは南無阿弥陀仏と自分がひとつになる。

座禅をするときも、日常的作業をするときも、自分としていること、自他がひとつになる。
 

著者は実際の宗教体験に基づいて書いているので、それを体験していない私が頭であれこれ考えても仕方ないのでこの辺でやめておこう。

 
なんだかすごくデタラメな解説(解説じゃないけど)になってるような気がします。

興味のある方はぜひ本書(ムズカシイよ)を読んでみてください。

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