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2009年9月

2009年9月30日 (水)

ファミコンの例

先の日記でファミコン(ファミリー・コンステレーション)のワークショップについて書いたけれど、やっぱりあれではよくわからないと思うので、具体的な例をあげてみたいと思う。

以下は、ヘリンガーの『脱サイコセラピー論』からの抜粋(原文通りではない)です。

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[例1]

自殺未遂をしたことのある若い女性の布置(コンステレーション)を立てたら、本当は彼女の母親が自殺願望をもっていたことと、その母の父親が川に身を投げて自殺をしていたことが明らかになった。

そこで娘の祖父を家族図の中に戻し、母親の脇に配置した。

解決は母が自分の父に寄りかかり、クライアント(娘)が「私は留まります」と言うことだった。

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クライアントの父は実際にそのWSに参加しており、母はドイツの自宅にいた。

ドイツにいた母は犬の散歩に出かけた。

いつもの散歩ルートには祖父が飛び降り自殺をした橋があり、その橋を渡る度に彼女は左側の手すりの脇に立ち、父(クライアントの祖父)が死んだ上流を見つめ、彼への祈りを捧げるのが日常だった。

でもこの日は、橋でいつものように祈りをしかけた時、彼女の内側から橋の反対側に行こうという衝動が沸き起こり、彼女はそれに従っていつもと反対側に立った。

その時、彼女は説明のできない幸福感を感じ、突然人生の荒波を泳いで行けると感じた。

それまでの彼女はしばしば自殺を考えていたが、この体験の後、そのような感情は消えた。

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[例2]

35歳の女性。25歳のときに甲状腺の手術、5年前、胃の手術を受け、常に慢性気管支炎があるなど、健康に大きな障害があることを感じている。

彼女の家族に起こった特別な出来事といえば、彼女は小さい頃に父親から虐待をされていたということ。

母に虐待のことを話すと、母は「誰にも言っちゃだめよ。でなければお父さんが牢屋に入れられてしまうから」と言い、助けてくれなかった。

家族の布置を立てていくうちに、彼女の母の姉が幼い頃に里子に出され二度と会えなかったことがわかった。

このケースでは、おそらく母は、姉を追うために夫や家族から離れたがっており、そのことで母は罪悪感を持っていたので、夫が娘に向かうことを黙認したのであろうという。

彼女の代役として。

 

幼児虐待の場合、たいてい加害者は二人いるという。

見える存在である表面上の加害者(このケースでは父親)と、影の加害者。

だからこの双方の加害者を視点に入れない限り虐待のケースの解決策はありえない。

 

ただし、ここで誤解してはいけないのは、重要なのは犯人探しをすることではないということ。

セラピストはシステム内で排除されている者とつながらなければならない

 
そして、布置をさまざまに変えていきながら、家族全員の表情が輝き、緊張が解かれ、家族システムに属する者全てがリラックスするところを見つけていく。

ファミコンでは、「家族メンバーのすべてが喜んでいることが、解決したことの証であり、一人ひとりが正しい位置にいる時、一人ひとりがその人にとって最も重要であることに忠実である時、そして一人ひとりがその人自身の人生を生き、他者の妨げとなっていない時、すべての者が尊厳と自尊心を持ち、そして心地よいのです。それが解決するということです。」p50

 
『脱サイコセラピー論』は非常に良い本なのに、残念ながら絶版で、古本は今では定価の4倍くらいのプレミアがついてます。

興味のある方で、私のサロンにいらっしゃる予定のある方には貸し出しもできますのでお問合せ下さい。

 

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ファミコン再び

先週、またファミリーコンステレーション(以下ファミコン)のワークショップに参加した。

ファミコンのWSの参加者は、最低3日間はこのWSについて人に話してはいけない、とされる。

それはWSで起こったことは解決ではなく、自分の魂にとっての始まりであり、それから徐々に無意識下でWSの体験が熟成されていく。

それを簡単に言葉にしてしまうことは、無意識下で進行中のプロセスを言葉にできる限定的なものに限ってしまい、そこでプロセスがストップしてしまうから。

本当はブログになんて書かない方がいいんだと思う。

だけど、やっぱり書きたいんだよね。

それは、少しでも多くの人にファミコンのことを知ってほしいから。

書くといってもWSの具体的な内容については当然守秘義務があるから公にはできない。

私に書けるのは、私が体験したことの本当に大雑把な概要だけ。

そのつもりで読んで下さい。

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今回のファシリテーターはハコミ認定セラピストでもある玉木素子さん。

母性的なセラピーという印象のあるハコミセラピーと、とても父性的でときにはとっても厳しい面もあるように感じるファミコン、どんな風に両立させているのだろうという興味もあった。

今回は参加者もハコミ関係者が多く知り合いも多かったので、最初からリラックスしてそこにいることができた。

玉木さんによれば、普通の個人セッションは肩が痛いときに肩を治療するのに対して、ファミコンでは身体全体を見ることで肩の痛みの原因を明らかにするようなものだと。。。

今回は自分のワークはせずに、他人のワークに代理人として参加するのみ。

それでも、1日4人のワークにフル出演で、なかには人数足らなくて一人のワークで2役もやったものだから、ヘトヘトになってしまった。

ワークで最初にクライアントから開示される家族の内容は結構ヘビーなものばかりで、代理人としてそこに立つことは当然その家族が感じるヘビーな感情を感じることになる。

それでも、どんなネガティブな行為や病気や状態も、全ては「家族に対する愛に基づく行動」なので、ワークでは家族の中のどこにその愛が隠されているのか、を探していくので、最後は必ず涙涙の大団円となる。

 

ファミコンは2度目だけれど、なぜ代理人として家族の布置の一部として立つだけで色々なことを感じ取れるのかがとっても不思議。

一度なんか、代理人としてその場に立つやいなや、頭を鈍器でなぐられるように、一瞬にして激しい悲しみが私に降ってきて、嗚咽をもらさんばかりだった。

私が努力して感じたというよりも正に感情が「降ってきた」という感じ。

(もしかしたら先祖の霊が実際に降りてきたのかもしれない・・・)

 
この現象は、一説にはルパート・シェルドレイクの「形態形成場」理論で説明できるともされる。

Wikipediaによれば、この仮説は以下のような内容からなる:

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  1. あらゆるシステムの形態は過去に存在した同じような形態の影響を受けて、過去と同じような形態を継承する。(時間的相関関係)
  2. 離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響する。(空間的相関関係)
  3. 形態のみならず、行動パターンも共鳴する。
  4. これらは「形の場」による「形の共鳴」と呼ばれるプロセスによって起こる。

非常に簡単に言えば『直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが他の人や物に伝播する』ということである。

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クライアントの家族の配置図に代理人が立つことで、その家族の感情やエネルギーを感じ、その家族全員にとって最も心地良いと思われる配置を探す。

そして、その心地よい感じをクライアントが感じることで、クライアントの魂の中に形態形成場が生じる。

それはこのWSに参加していなかった家族メンバーにも影響を与え、家族全体がだんだんと調和を取り戻してく。。。。。

 
不思議な世界。

このトレーニングもぜひとも受けてみたいものだ。

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WS後の沈黙の期間にファミコン創始者のバート・ヘリンガーの『脱サイコセラピー論』を読み返す。読み返すのは3度目だ。

とにかく文章全体からヘリンガーの深く、強く、敬虔なエネルギーがひしひしと伝わってくる。

そういえば、最近ファミコンは仏教のお坊さんの間で意外と普及されているとか。

生も死も同等のものとして扱い、死者にもしっかりと居場所を与え、自分の生命がやってきた根源である先祖のエネルギーを大切にすることは限りなく宗教的である。

カトリックの司祭だったヘリンガーのように、仏教の僧侶の中から素晴らしいセラピストがたくさん生まれたら、仏教も世の中も素晴らしく厚みを増していくことだろう。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

心と体のセラピースペースAlma Mater(アルマ・マーテル)

東京江戸川区の心理カウンセリング/ヒプノセラピー/クラニオセイクラル

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2009年9月28日 (月)

薫習

先週のくりのみ会「親鸞とカウンセリング」コースで、会の代表の鈴木さんから「薫習(くんじゅう)」という言葉を教えていただいた。

「薫習」という字からどんなことを想像できるだろうか?

薫製のように、煙でゆっくりと燻すようにじわじわと何かを心身に染み付かせること。

なんだかとてもいい言葉だなぁ~と思った。

 
Wikipediaによれば、薫習とは、「身口に現れる善悪の行法もしくは意に現れる善悪の思想が、起こるに随ってその気分を真如あるいは阿頼耶識に留めること」とある。

 
どうしてこの言葉が出てきたのかというと、鈴木さんご自身が「自分はどうして親鸞や道元について勉強しているのだろう?」と考えたとき、自分のカウンセリング(教育相談)の先輩方がやはりこれらをよく読んでいたからであり、素人ながら仏教について長く学んでいることを「薫習」、あるいは「薫染」の思いで続けている、というようなことをおっしゃったのだ。

勉強にもいろんな次元があるけれども、頭で理論を効率的に理解するような方法ではなくて、じっくりと時間をかけて、頭という表層意識ではなく、人間のもっとも深い無意識の層である「阿頼耶識」を豊かにする。

 
私も、自分のやっている勉強方はまさにこれだと思っている。

まあ、わたくし、頭が悪いので頭による理解は苦手だという本音もあるけれど、やっぱり阿頼耶識を豊かにすることが大切でしょう。

 
「薫習」という言葉について調べていたらある禅寺の和尚さまの文章を見つけた。

座禅とは、座っている時間だけが座禅をしているわけではなく、座禅に行こうと思った瞬間から座禅は始まっており、それがもし歴史ある禅寺に行ったのであれば、その禅寺で何百年も培われた禅の精神は禅寺の全ての佇まいに表現されており、そこに身を置いてお寺の掃き清められた空間や石庭の美しさを感じること自体が座禅であり、それら全てが薫習である、と。

そして、座禅なんかしても何も変わるわけではないけれども、座禅の効果が発揮されるのは、人がもっとも窮地に陥ったようなときなのだ、と。

窮地としっかりと向き合うための精神の強さが、いつの間にか自分の中に培われている。。。

ふむふむ、これだよ、これ!と妙に納得するわたくしですhappy01

参考のために私が読んだ「薫習」についての文章はこちら↓

岐阜市にある瑞龍時の「心の杖」

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2009年9月23日 (水)

お彼岸に想う

今日はお彼岸。

秋分。

太陽が真西に沈む日。

その太陽の沈む先には、あれがある。

極楽浄土。。。

 

先週、知人の訃報を聞いて以来、悲しみの気持ちがわいてこないことに戸惑いながらも、毎日彼女のことを想う。

うまく心を通わせられないまま終わりになってしまったこと。

だけど、それは仕方のないことだし、別に後悔の念とかは全然ない。

 

でも、毎日彼女の死を想っているうちに、ふと、私って物別れに終わってしまっている知人が結構多いということを思い出した。

あの人も、この人も、あっちの人も・・・

 

やれやれ。。。

 

死の淵からもの思うとき、何事かにこだわって関係を切ってしまっているということが、とても小さくてもったいないことのように思えてきた。

そして、やっぱり切れているよりもつながっていた方がいいに決まってるよなぁ~と。。。

 

ふと、関係をつなぎ直すことをしてみようかな、と思った。

向こう側から切られたものについては相手方の都合があるから、すぐに関係修復は難しいけど、私がこだわってた分についてはこちらから禁を解いてみよう。

少しずつ。

だって、やっぱり自分が死ぬとき、そういう断絶した関係って悔いが残ると思うもの。

 

自分がこんな風に思うなんて、彼女の死が私にこんな風に思わせるなんて・・・。

これが彼女が私に置いていってくれたギフトかもしれない、と思う。

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そんなことを考えていたら、先日、ちょうど2年前に私から勝手に縁を切った知人と同じバスに乗り合わせた(ような気がした)。

本人だったからどうか定かではない。

でも、私が彼女だと認識したこと自体にすごく意味がある。

 

そういう「時」なんだ、今が。。。

 

 

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2009年9月22日 (火)

「カムイ外伝」

映画「カムイ外伝」を観た。

ダンナと一緒に映画を見るなんていったい何年ぶりだろう?

そんな貴重な時間にこんな作品を観に行っていいんだろうか?といぶかりつつ、観に行った。

 

実はダンナがこの映画の小道具制作に関わってるのだ。

だけど、ダンナが関係する映画って私にとってはあまり面白くないから普段はそんなに付き合って見に行ったりしない。

でも、先週映画の宣伝のためにTV出演した松山ケンイチを見たら、「あら、なんて可愛いのlovely」と久々にハート目になってしまったのだった。

う~ん、松ケン、なんかわたし好みですheart

だいたい息子と言ってもいいくらいの年齢だけど。。。

飾らない感じ、自分とつながってる感じ、少年っぽい純真さがイイ。

あんな息子がいたらいいのになheart

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さて、映画の口コミを読むと、酷評ばかりが目立ち、かなり「覚悟」して観に行った。

あまりのくだらなさに途中で席を立ちたいほどだったらどうしよう、とか。。。

 

でも、映画はわたし的にはすごく面白かった。合格点!

CGの多用は興をそぐけれど、別にハリポタとかハリウッドでもCGでうんざりすることには違いがないのでその点は目をつむることにする。

映像も、役者も、音楽もよかった。

松ケンはよく健闘してた。

小雪も、美人女優の域を超えて健闘してた。

伊藤英明も好き。「陰陽師」のときの頼りな~い男を演じたときと打って変わって野性味溢れる強い男をよく演じていた。

ちょっと狂ったお殿様(佐藤浩市)もよかった。

ラストシーンでは時代の不条理がよく表現されていた。

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被差別部落の子として生まれ、幼い頃から差別と貧困に苦しみ、それゆえ「強くなりたい」と忍びの道に入り、人を殺める非情に耐えられずに「抜け忍」となり、厳しい掟ゆえに追われる身となる。

追われる身ゆえに、人を信じられず、本当の敵は追忍ではなく「己の中の猜疑心」だという。

最初のナレーションを聞いただけでその悲惨さと苦しみは想像に余りある。

映画ではあまりドロドロした感じは描かれてなかったけど、エンターテイメントとしたらこんなもんでいいだろうと思う。

 

だがしかし、ダンナの評価は最低だった。

ダンナ的には全然ダメだって。

いくら話し合っても平行線。

へ~~~、こんなに評価がわかれる映画ってあるのねぇと思った。

やっぱり原作を読んだことのある人には物足りなすぎるようですね。。。

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ところで、この映画に出てくる手裏剣、うちのダンナが作りました。

何にでものめり込むダンナのエネルギーにはいつも感心するが、今回の件でもスゴイな~と思った。

というのは、3年くらい前、突如ダンナが手裏剣に夢中になりだした。

手裏剣っていってもよくTVで見るような星型をした手裏剣を投げる忍者ごっこではなくて、でかい鉄のクギみたいなものを使う、一応ちゃんと流派もある武術です。

夢中で練習して、そのうち、作りもの屋の性で、自分で鉄を削って手裏剣を作ることに精を出し始めた。

そしたらダンナの先生がこの映画の武術指導をされることになり、ついでにダンナが手裏剣を作ることになったのだ。

自分の好きなことを単なる趣味ではなくて仕事のレベルにまで引き上げてしまう情熱にはいつもながら脱帽です。

そういえば、撮影の始まる前、松ケンが手裏剣の打ち方を練習するために道場に来たって言ってました。

私はそのときは松ケンなんて知らなかったので「ふ~ん」と聞いてたけど、今から思うとちょっと残念だわ。。。

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2009年9月21日 (月)

「ユング心理学と仏教」

久しぶりに河合隼雄さんの本を読んだ。

心理学に興味を持ち始めた頃は主にユング心理学が好きで、河合さんの本をたくさん読んだのに、自分がいざ心理療法を始めたときにユング心理学が表立って自分の手法に入っていないことを、今さらながら不思議に思う。

でも心理療法における基本的な態度はやはり河合さんの本を通して学んだ部分が大きいし、今回この著作を読んでも河合さんの魂の深さには恐れ入るものがあると再認識した。

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本書は単なる学術書ではなくて、河合さんの体験を通して、河合さんが心理療法を実践していくうちに自然に「自分のやっていることは仏教思想と共通する部分があるのではないか」と気づいていく過程が書かれていて興味深い。

そして、河合さん自身は参禅したこともないし、悟りの体験などしたこともないく、悟るために修行をしようなどと思ったことはないという。

でも、日々の心理療法の場面でクライアントが持ち込む悩みは論理的な思考では解決不可能であり、それはいわば毎回「公案」をもらっているようなものだという。

それを読んで、「そうか、悟らなくても、修行しなくてもいいんだ・・・」と私はちょっとホッとした。

ユング心理学と仏教の共通点や相違点についてはここではとても書いていられないので興味のある方は本書を読んで下さい。

心理療法は「患者と治療者の全人格が演ずる相互作用以外の何ものでもない」といい、河合さんは大胆にも、自分が心理療法をするとき、華厳経における大日如来のようなあり方でクライアントの前に座るという。それは「分別を超えた意識」であり、中心にあるのは「沈黙」である。

完全なる無分別(善悪を超えた、全体を包含するような意識)でそこにあると共に、現実的な意識もしっかりと持ち、「自分の意識を表層から深層まで、できる限り可動の状態にしていることによって、クライエントと共に自分の行く方向が見えてくる」という。

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もっと具体的な内容について書きたいのだけれど、私が文章にすると本書の深みを台無しにしてしまうので、この辺でやめておきます。

そうそう、本書の中で禅仏教の悟りの過程を表現した「十牛図」について書かれているのだけど、その中の最初の図に記された「従来失せず、何ぞ追尋を用いん」という言葉がとても好きです。

私はこの境地でクライアントと接していたいな~と思います。

これからまたユング心理学について少し勉強し直したいと思ってます。

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2009年9月16日 (水)

つながり

ある人の突然の訃報に接した。

こういう知らせは本当に残念だ。

ただ、驚きの気持ちもあるが、心の片隅に「やっぱり・・・」という思いが浮かんだことも否定できない。

 
そんなに具体的に何かを予想していたわけではなかったけど

生きているのが結構つらそうに見えた。 

 

私はその人とうまくつながることができなかった。

少なくとも表面的には。

 

でも、全ての人は(この世界の全てのものごとは)深いレベルでつながっている。

それは本人たちが意識しようとしまいと、つながっているし、切り離すことなんてできない。

 

私はその思いを頼りに生きているので、

表面的にうまくつながれなくてもいいや、と思ってやってきた。

 

私は私として、自分にできる限り精一杯の自分自身として接することしかできなかった。

でも、いつかお互いに深いところで分かり合える日が来ることを望んでいた。

その可能性の片鱗を、1ヶ月前に会ったときに感じることができた。

 

でも、その可能性は、可能性のままで終わってしまった。

 

でも、生きていても死んでいても、つながっていることに変わりはないのだ。

 

その人との関りを通して、私の魂に刻まれた足跡は決して消えない。

 

ちょうど1ヶ月前、地下鉄のホームで

「じぁあ、また!」と言って別れた姿を思い出す。

 

ご冥福をお祈りします。

shine  shine  shine  shine  shine

 

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2009年9月 9日 (水)

新小岩がインド化してる?

最近、新小岩界隈にまるで雨後のタケノコのようにインド料理店がオープンしている。

南口だけで5件!

江戸川区は葛西方面にインド人コミュニティーがあることは知ってたけど、いよいよ彼らが新小岩まで進出してきたようだ。

私も夫もインドカレー大好きなので、新しいお店ができるとすぐに行ってみる。

Sn3f0098 一番最近出来たのは小松通りの「クィーン・ガーデン」。

さっそく行ってみたけど、結構良い感じだった。

「インド・ネパール料理」ということなので、店員さんたちは人種的にもモンゴロイドに近いせいかなんとなく肌になじみやすい感じ。

お店の雰囲気も店員さんも清潔でキレイな感じ。

厨房が通りから見えるようになってるので、石釜でナンを焼いてる姿が見えるのもいい。

お料理も品の良い味。

サラダのドレッシングもおいしい。

ナンはさくっと軽め。

ただ、辛さの表示が微妙な表現なので、安全なところでMidiumにしたらちょっと辛さが足らなかった。

普通の人の舌ならHOTでも大丈夫そうです。

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先月には、ルミエール商店街を抜けたところにインド・パキスタン料理の「アルマディナ」(江戸川区松島3-40-1)がオープンした。

P8160096 ここは以前「ジョーハー」というインド・バングラディシュ料理のお店だったのが、突然オーナーが変わってリニューアルされた。

ジョーハーのマスターはとても親しみやすく良い人だったのに突然閉店してしまって残念だった。

行ってみたところ、ちょっと私の好みではないな~という感じです。

カレーが塩っぱくて辛さがない。まあ辛さは選べるけど、オーダーの際に特に辛さを聞かれなかったので、標準的な辛さを想像してたら全然辛みがなかった。

ナンももっちり感がなくてちょっとガッカリです。

でも立地的にはとても良い場所だし、私も利用しやすい場所なので、これから研究を重ねて頑張ってほしいな~。

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一番頻繁に利用するのは江戸川区役所近くの「AGNI(アグニ)」(東京都江戸川区松島1-42-17 )。

オープン時は「YUJIN(友人)」という名前だったのにいつの間にか名前が変わってた。

ここは、平日は人通りも多く区役所職員さんたちもよく利用するみたいで、軌道に乗ってきた感じ。

お味は、ほうれん草カレーと野菜カレーがおいしい。

チキンやエビカレーはいまいちかも。

ナンはもっちりしてるけど薄くてちょっとボリューム感に欠ける。

でもおかわり自由だからいいことにしよう。

ただ、サラダのドレッシングが真っ赤で毒々しくて大変おおざっぱなお味。

500円のテイクアウトも便利なので、よく利用します。

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それから、新小岩駅近く、西友脇にできたインド・ネバール料理の「アキリティ」(葛飾区新小岩1-29-5) のことは以前このブログに書いたので過去の記事参照のこと。

http://esalen-bodywork-kai.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-9c41.html

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もう1件、インド・バングラディシュ料理の「ゴロアレストラン」(葛飾区新小岩4-8-11)

ここは1回入っていろいろな意味でいまいちで、半年持つかな~と思ってたのに、意外と持ってるようです(^_^;)

・・・と思っていたら、なんと9月21日からインド・ネパールレストラン「マリか」という名前に変身してました。(9/22追記)

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こうしていろいろ行ってみると、お店によってそれぞれ微妙に味が違って、メニューによってもおいしいのとそうでもないとあるなぁと思う。

完璧なお店はなかなかないけど、みなさんそれぞれに頑張ってほしいな~と思います。

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2009年9月 8日 (火)

出会い

朝、公園で太極拳をしていると、通勤途中の男性(定年まであとどのくらいかな~という年代の)がいつもこちらを気にしていることにある頃から気がついた。

だいたいいつも3回くらいはこちらを振り返りながら去っていくのでよっぽど興味があるのだろうな~と思っていた。

昨日の夕方、偶然その男性とすれ違い、少し話をした。

その人によれば、私がまだお勤めをしていた頃から通勤途中に何度かすれ違っていたそうだ。

私は全然気がつかなかったけど、そうやって無意識に人とは出会っているのだなぁ・・・。

そして、その人によれば、当時よりも今のほうが私のお肌はつやつやしてるってhappy01

昔すれ違ってた頃はきちんとお化粧してそれなりの格好で歩いてたはずだけど、今はドスッピンでダサいTシャツを着た全く無防備な状態で出かけてる。

それに私もかなりお年頃なので、この年代の2~3年というのはお肌にとってはいっぱい曲がり角がありそうだ。

それでも今の私の方が輝いて見えるってのはなんとうれしいことか!

まぁ、太極拳の効果かもしれないし、何よりも自分の生きたいように生き始めたから、私らしさが素直に発散されているのだろうと思う。

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一方、太極拳グループに最近男性が一人参加しはじめた。

2回くらい参加した後に、「これやったら腕が上がるようになった」と報告してくれた。

老人ってなんて単純なんだ!!

たったの2回で、しかも型なんか全然わからないから、ほとんどうろうろしてただけなのに!!!

でも、人間の力ってすごいなぁ~と感心する。

プラセボの力、思いの力。

その他にも朝の空気、公園の木々、そして、人と会う、ってことなどが全て相乗効果となってるのだ。

今朝、スワイショウしながらおしゃべりしていると、その男性はグループの最長老の女性と同じ田舎の出身(小学校も一緒)ということがわかった!

ご縁って不思議だなぁ~~~~!

その人は定年退職後、何年も一人暮らしをしていて1日中することもなく退屈してたみたいなので、こうやって人と話をするだけでもかなりお元気になるだろう。

私の始めたことも結構ご近所の人たちの為になってるよね、っと自画自賛bleah

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その男性は、全く字が読めないと言う。

戦争中、いつも防空壕とかに隠れたりしてるうちに学校が嫌いになって、学校にはあまり行かなかったそうだ。

それでも東京に出てきて50年、立派に生きてきた。

そうかぁ~、文盲の人って意外とたくさんいるのかもしれない、という意外な発見。

何を隠そう、私の父もろくに読み書きができない。

私はそのことがものすごく恥ずかしかったし、文盲の人なんて日本には父くらいしかいないと思ってた。

そして父のことを軽蔑してたし、「学がある」ことに対するコンプレックスとあこがれは強かった。

それが、今日のその男性との会話の中で、文盲もそんなに特殊なことではないんだぁ~と目からウロコが落ちた思い。

その男性の知らないところで、私の内面にある変化が起こっている。

人の存在って不思議、人との出会いって不思議で、ありがたいheart01

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2009年9月 6日 (日)

鈴木大拙『禅仏教入門』

鈴木大拙の『禅仏教入門』を読んだ。

鈴木大拙といえば日本の禅文化を海外に広く知らしめた高名な仏教学者で、体験的にその極意を体得されたであろう方。

私がこの日記に書く本の類はいつも「今さら」っていうくらい遅れているのだけど、私にとってはようやくご縁が出来たところなのだ。

この書は最初は欧米人へ向けて英語で書かれたものが後に翻訳されたもの。

だからなのか、私にはとてもわかりやすい感があって、一気に読んでしまった。

そして私がこの数年、宗教はじめスピリチュアル思想に興味を持ち、超能力を持った人たちにも出会ったりして、それまでの世界観をがらりと変化させられたりしながらも、最近スピリチュアルな世界に飽きてきて、もっと日常に目を向けたいと思った自分の思いともとてもつながる気がして、「禅とはこういうものか」と、私の稚拙な頭が理解したものがあった。

そして、論理や知性による理解ではなく、体験によって実存の深みを理解するという禅のやり方を欧米人がさかんに取り入れて、座禅に励んだり、エサレン研究所でもさかんに行われたゲシュタルト・セラピーなどにもその影響が色濃く表現されていることがよくわかった気がした。

私が一番共感したのは、「禅の精神は自由闊達で何ものにもとらわれないこと。その自由さは、神にもとらわれない」ということだ。

禅は神仏の類を否定しているのではない。

ただ、それらにさえ囚われないのだ。

「キリスト教によれば、われわれは神の中で生き、動き、在るということになるが、どうもそれでは、あまりに神を意識しすぎるような気がしてならぬ。禅は、できればこの最後の神意識をも、跡形なく抹消せんとする。だからして多くの禅匠たちは、仏の有るところにとどまらず、無仏のところをも駆け抜けよ、と忠告しているのである。」(P177)

それが本当の精神の自由だと、私にも思えてならない。

この書には大拙博士の情熱のようなものが伝わってきて、私も胸が熱くなるのを感じながら読んだ。

だからといって、私が禅と今後どのように関わっていけばいいかは、今のところまだわからない。

いろんな公案を読んでいると、どれもこれもわけがわからず、だんだんイライラしてきたし。

そして、それらの公案に接していると、まるで「天才バカボン」みたいだなぁ~と思うのだった。

もしかして赤塚不二夫は類まれなる禅匠だったのだろうか???

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2009年9月 2日 (水)

長男の出家

「長男の出家」(三浦清宏著)を読んだ。

きっかけは、南木佳士の本を読もうと思って、代表作の「ダイヤモンド・ダスト」が載っている「芥川賞全集」第14巻を図書館で借りてきたら、偶然この作品が同時に載っていたので読んだのだ。

その本には昭和60年~63年の芥川賞受賞7作品が載っており、「ダイヤモンド・ダスト」はまぁまぁの印象で、次に読んだ池澤夏樹の「スティル・ライフ」がものすごく面白くて、これについて書きたいなぁ~と思いつつ、気の向くままに他の作品を読み進めていったら、なんだか知らないけどこの「長男の出家」にとても惹き付けられてしまったのだ。

受賞は昭和62年、「スティル・ライフ」と同時受賞だ。

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「僧になりたい、と息子が言い出したときには、驚いた。」

という冒頭の1行で「えええ?」と引き込まれてしまった。

小学校3年生の長男がある日突然僧侶になりたいと言い出し、何かの気まぐれだと思っていた父親の思いを裏切り、その意志は中学生になっても変わらず、とうとう本当に禅寺に出家させるというお話。

出家するとはつまり親子の縁を切ること。

戸籍まで抜いてしまうのだそうだ。

そこまでの覚悟があって出家させたわけでもない両親は子離れに対して様々な葛藤を抱くことになるわけで、その過程が淡々と、ときにはユーモラスに語られている。

どうやらこれは著者の実話に基づいているらしいことがまた興味深い。

私の興味を引くのは、幼い子供がどういうわけで僧になりたいと思ったのか、ということなのだけど、その辺の息子の心理描写はあまりない。

私としてはそんなに小さい頃に仏道に入りたいという信念を持ってしまった彼に対して尊敬の念を抱くとともに、何かうらやましいような複雑な思いを持った。

どうも今の私は仏教に興味とあこがれがあるのだな・・・

とは言っても、作中でも書かれているが僧の修行はとても厳しくて、私にはそんなことはとてもできないしやりたくもない。

だけど、やはりすごくあこがれみたいなものがある。

因みに著者はちょうど息子が生まれた頃から毎週禅寺に通って座禅をするようになり、そのうちにまだ小さかった息子を連れてお寺通いをしだしたそうだ。

そして上述のように息子は出家することになり、その後も著者はずっと参禅を続けていたのだが、同作で芥川賞を取ったときに、禅寺の師匠(=出家した息子の師匠)から「息子の修行の妨げになる」と破門されてしまったのだそうだ。

また、興味深いのは、著者は若い頃アメリカやヨーロッパで長く暮らし、ヨーロッパにいた頃に心霊研究に興味を持ち始めて、心霊研究の書籍を書いたりしているのだ。

そういう視点を持ちながら禅の修業をしているところにとても興味がわいて、この人の他の文章も読んでみたいな~と思うのだった。

こうしてみると、息子が小3で「僧になりたい」と言い出したのは、もう生まれる前から決めていたとしか思えない。

☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

最近、くりのみ会の「親鸞とカウンセリング」や「道元とカウンセリング」の会にぼちぼち出席しているが、だんだん面白くなってきている。

座禅も何故かすごく好きだ。

ちっとも頭は空にならないし、足はしびれるんだけど、どうして私はこんなにも座禅が好きなのかな~と自問するところがあるので、この小説にひどく惹かれたのだ。

「正法眼蔵」も全くもって難しくてよくわからないのだけど、私は哲学的思索というのがかなり好きだということも再認識し、今読んでいる「有時」の巻の講義を聴きながら、「世界」や「私」や「存在」や「時」に関して日常意識とは少し違った視点からものごとを考えることにワクワク感を感じている。

先生のお話によると、お経は暗唱しても読経しても、上手く読んでも下手に読んでも、または読まずに経本を持っているだけでも効果に変わりはないんだそうだ。

効果ってなんに対して?

そうか、悟りに至ることに対してか・・・。

そうやってご縁をつないでいるだけで自然に何かが目覚めるときが来るのであろう。

ものぐさな私にぴったりだわ(*^_^*)

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愛しのたまちゃん

P7190090_2 最近私の心をなごませてくれてるのが、左の写真のネコ。

三毛のブチネコでちょっと小柄で、とても和ネコっぽいので、名前はたまちゃんと命名。

今年5月の中頃、いつも太極拳をやっている公園のすぐ隣、第三松江小の門のあたりから激しく助けを求めるネコの鳴き声がして、探してみるとこの子がいた。

毛は薄汚れていて、警戒しながらもすぐに近寄ってきて、私に甘えた。

このあたりには住み着いてる野良猫が何匹かいて、近所の猫好きの人が毎日ごはんをあげているのを知っていたけど、この子は突然現れたので、たぶん飼い主に捨てられたのだと思う。

突然見知らぬ場所へ放り出されてしまったために、場所への警戒心は強いけど、根は人間が大好きみたい。

私はこの子にとても強く心を奪われて、毎朝太極拳への行き帰りにカリカリをあげるようになった。

たぶん室内飼いされていたのだろう、あまり行動半径が広くなくいつもだいたい同じ場所にいる。

この子は古株の野良猫たちからは少し離れたところにいるので、お馴染みのねこばばあ(常にネコエサを持ち歩き野良猫にごはんをあげている人たち)に見つけてもらえるかなぁと心配してたけど、私が6月初旬に3泊4日の合宿から帰ったときにも元気そうにしていたので、誰かにちゃんとごはんをもらえていることがわかりホッとした。

いつも茂みに隠れていて、「チチチツ」と舌打ちするとすぐにニャアニャア鳴きながら出てきてくれる。

私に対しては全く無防備に甘えてくれるので本当に可愛くて仕方がない。

こんな風に素直に甘えられるってうれしいものだなぁと思う。

私は子供の頃から甘えるのが下手だったし今でも下手なので、彼女をちょっと見習いたい。

彼女のことを思い出すだけで、胸がキュンとなったり温かくなったり、幸せになったりする。

そう、たまちゃんは私のリソースのひとつなのだ。

本当ならうちで飼いたいのだけど、我が家には先住ネコが2匹いるのでこれ以上飼うのは無理。

毎朝たまちゃんに会って、体を撫で、「かわいいね、愛してるよ、元気でね」とナリッシュになる言葉をかけることで彼女の免疫系が活発になって、過酷な環境でもなんとか生き延びてほしいと切に願う今日この頃です。

ご近所のみなさま、もしたまちゃんを見かけたら優しく声をかえてあげて下さいね

P7190096_2

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