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2009年3月

2009年3月31日 (火)

自分を省みる時代

今日、友人と長話をしていて妙にヒットした言葉があった。

これからは自己を省みることをしない人は生き残れない時代に突入した

う~ん、なんだかいい言葉だなぁ・・・

 
今の時代、うつ病など心の病気やがんなど命に関わる病気が非常に増えているけれども、それらの原因はやっぱり自分の心を押さえつけていることにあるというのが私たちの持論。

これらの病気になったとき、薬や手術は必要だとしても、自分の心を見つめ、生き方そのものを変えなければ完治は難しいであろう。

そして、どこまでも自分の心を見つめない人は自ら命を絶ってしまったり、病から完全に回復できずに亡くなっていくことに。。。

自らの心を見つめ直し、生き方を根本的に変えた人のみが生き残る。

 
うつや、癌などの致命的な病を得たとき、人ははじめて本当に真剣に自己と対峙しなければならなくなる。

それらの病気は災いではあるけれど、実は大きな大きなチャンスだ。

自分を取り戻すための。

そのことを私も友人も自らの体験を通して発見した。

自己を見つめ直すことはときとして大きな痛みを伴う。多くは自己の闇を見ることになるだろうから。

でも、暗い暗いトンネルを辛抱強く前に進むと最後にはパァ~っと開けた場所に出ることができる。

そのとき、きっと人は生まれ変わったように感じるはずだ。

せっかくの人生、その苦悩とその先にある深い喜びを味わわなければ損な気がする。

 
よく、「セラピストのような人に尽くす仕事は大変ではないか」なんて言葉を耳にするけれど、とんでもない。

病やその他の人生の苦難をかかえてセラピーにやってくる人は、実は宝の山を抱えて私の目の前に現れてくれるありがたい人だ。

その人たちが「自分という宝」をひとつずつ発見していく過程にお付き合いできることはこの上なく楽しい。

問題を抱えてセラピーにやってくる人は、「悩む力」を持っている人。

今は、この「悩む力」さえ持ち合わせていない人が多い。

まあ、悩まずに一生を終えられる人はそれはそれでいいと思うけど。。。

 

いやいや、それにしてもセラピーという仕事は本当に本当に面白い、と思う今日この頃だ。

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2009年3月23日 (月)

最近のペットブームに警鐘

犬好きの人には申し訳ないけど、私は犬というものがあまり好きになれない。

生き物は全般的に好きだし、ワンちゃんも見れば可愛いと思うけれど、私はつい、犬が好きだという人の人間心理について考えてしまうので、人間の影の部分をどっぷり担わされている犬という存在がとても哀れに感じてしまうし、私は犬のようには生きたくない、と思ってしまう。

先週あるTV番組を見ていたら、最近、遺伝的障害を持った犬が多く生まれているということを報道していて胸が痛くなった。

特に、ドックショーで優勝するためにと、審査基準に少しでも近づけようとして無理な交配(近親相姦)を繰り返したために、今多くの犬が信じられないような障害に苦しんでいる。

犬は本来オオカミと似たような容姿を持っているものなのに、何百年もかけて人間の都合に合わせて様々な品種を作り上げてきた。

たとえばシベリアン・ハスキーとチワワとブルドックが同じ種であるなんて、私には簡単には信じられない気がする。

犬の障害の例としては、脳に障害があってずっとその場をぐるぐる回り続けている犬や、てんかん持ちの犬や、ソケイヘルニア、膝蓋骨脱臼、などがある。

ブルドッグに至っては、ドッグショーの審査基準に合わせるために鼻をペチャンコにさせ過ぎたために、呼吸がうまくできないんだそうだ!

犬は毛穴がないから呼吸によって体温調節もしているから、ワンちゃんの苦しみはいかばかりか、想像するにあまりある。

それに、ブルドック類は頭が大きすぎるため自力での出産は難しく、帝王切開で生むしかない。

しかも、自然交配すら難しいので、人工授精が行われるって・・・。

これって生物としての最低ラインを保障されていないってことだ。

これらの批判を受けて、ドッグショーを主催するケンネルクラグは審査基準をもう少し自然な体型に変更した(する?)らしいけど、人間が勝手に美の基準なんてものを作って犬に押し付けること自体が間違っていると思う。

 
この番組を見た後で、近所のペットショップに寄ってみた。

犬は嫌いなんて言っても、見て可愛いと思うことには変わりない。
小さなワンコたちは純粋な目で人間を見つめ、愛想を振りまく。

檻の表示に目をやれば、そのワンコの特徴として「停留睾丸、ソケイヘルニア、膝ゆるい、やや斜視・・・・・・」などの表記がびっしり。

「動物愛護法に基づいて」表記しているらしいけど、一匹のワンちゃんが持つ障害の多さにビックリした。一匹で5種類くらい書かれてる仔がいっぱいいる。

このような表記を見て買う方は買う気になれるのだろうか?

そして、売れ残ってしまったワンちゃんの行く末を想像すると・・・・・・・・・・・・・・・・・

世間はペットブームのようだけど、彼ら可愛いペットの裏事情までよ~~~く想像力を膨らませてほしいと、切に思う。dog

 

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2009年3月21日 (土)

「納棺夫日記」

「納棺夫日記」を読んだ。
やっぱりすごい本だった。

映画「おくりびと」では納棺夫という人から疎まれがちな仕事についてしまった主人公がその仕事に誇りを見い出していく過程と、家族の愛(親子愛、夫婦愛など)に重点が置かれていて、「死」をテーマにはしているけれど、とてもヒューマニズム的な色合いを強く感じた。

でも納棺夫日記ではそこをはるかに超えて、実に宗教的なテーマに迫っている。

読み終わった印象は、「透徹」という感じ。

実際「日記」的な部分もあるけれど、後半は偉大な思想書の様相を呈している。

著者の青木新門さんは、死体と真摯に向き合い続ける中で宗教的な体験をするに至り、自分の体験から宮澤賢治の世界観や、親鸞の教えについて思いをめぐらしている。

その宗教的体験とは、やはり、「光」の体験なのだけど、それをもっとも悲惨な現場での出来事を通して経験していることだ。

具体的なエピソードのひとつには、死体にわいた蛆虫に生命を感じ、「蛆たちが光って見えた」という。

その点で、よくあるスピ系の本などとはその重みとリアリティーが圧倒的に違う。

本当に生々しい死と向き合うことで、完全な死の立場から、「あの世」的な静寂の世界から生きている人々を見つめている。

☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

以下、つらつらと思いつくままに・・・

「無条件の受容」

著者ははじめ納棺夫の仕事を恥じていた。
そしてある日、納棺に出向いた先は昔の恋人の家だった。
亡くなったのはその恋人のお父さんだった。

吹き出る汗を気にしながら必死に湯灌していたとき、ふと気づくと元恋人が額の汗を拭いてくれた。
そしてとても深いまなざしで著者を見つめていた。

その瞳に、本当にありのままの、全存在としての自分が認められたと感じて、その後はこの仕事に誇りを持てるようになったのだという。

たった一人の「無条件の受容」は人を根本のところから変容させる力があるのだなぁと、改めて思った。

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「穢れ」というものについて

著者はある日、自分の奥さんから「穢らわしい!」と言われ、「鋭い刃物で切りつけられるような」激しい衝撃と怒りを感じた。

そして、「穢れ」という言葉がいかに太古の昔から日本人の意識・無意識にまで沁み込んだ概念であるかを説いている。

そこで、私も少しだけ思索してみる。

よく「浄化」とか「祓い」「清め」などの必要性を耳にするし、一方では「邪気」とか「邪気をもらってしまう」とか言うけれど、仏教的悟りに至れば色即是空 空即是色であるし、善も悪もない。

じゃあ、祓い・清めなんていらないんじゃないか、と思う。

話は逸れるが、般若心経はお祓いの呪文としても良いなんて聞いたことがあるけれど、それを読経することで、善も悪もないという境地に至れば邪気・邪霊を気にすること自体がなくなる、ということではないか、と思った。だって全ては「空」なんだから。。。

邪気とかを気にする人は、自分の中に受け入れられない闇の部分があって、自らの闇を映し出す対象に出会ったときに心身が揺さぶられてしまうのだと思う。この本の場合には、「死」を受け入れられないから、「死」に関係するものは全て「穢らわしい」ということになってしまう。

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「美しい死に方」について

著者は、美しい死に方とは?ということで三島由紀夫の死と、「楢山節考」のおりんばあさんの死とを対比させている。

本の内容はともかくとして、自分にとって美しい死に方とはどんなものだろう?と思った。

本の中にもあるけれど、「枯れ枝のようにやせ細って」死んでいくのがいいように思う。
一番自然な感じがするから。

20年以上前、母方の祖母の旅立ちを看取ったとき、祖母は1週間自宅で昏々と眠り続け、親戚縁者に見守られる中、枯れ枝のように死んでいった。
昨年、ネコのぴーちゃんを看取ったときも、枯れ枝のようだった。

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「光の体現者」としての親鸞と浄土真宗

本の後半は、親鸞と浄土真宗について詳しい考察が書かれているけれど、この辺については私からは何も書けるような段階ではない。

ただ、親鸞についてもちょっと勉強してみようかなぁと思いつつある。

偶然にも(偶然じゃないのかもしれないけど)、カウンセリング研究会「くりのみ」で4月から「親鸞とカウンセリング」というコースが始まるのだ。
しかも、テキストは「納棺夫日記」の解説も書いていて著者も大尊敬するという高史明さんの「現代によみがえる歎異抄」だ。
おまけに、くりのみ会の主催者の方が高史明さんのお知り合いらしく、近いうちに本を持って高さんのお宅にお邪魔してサインしてもらってきますとのこと。

こんなすごい本を前にして、突然ミーハーな話で終わってしまう、愚かな私であった。。。

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さくら咲く

今日、正式に東京地方の桜の開花宣言が出されたが、うちの近所の桜もちゃんと咲いた。

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これから日々少しずつ咲きそろっていく桜を見るのが楽しみだ。

こんな、桜の開花宣言や入梅宣言・梅雨明け宣言みたいなことをやってるのは日本だけじゃないのかなぁ~

四季があるって幸せだcherryblossom

 

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2009年3月20日 (金)

「やさしいカウンセリング講義」

今月から参加を始めた地元のカウセリング研究会【くりのみ】の「教育とカウンセリング」コースで、テキストとして輪読中の本「やさしいカウンセリング講義」(古宮昇著・創元社)をアマゾンで取り寄せ、一気読みした。

なかなか良い本なのでここでもご紹介。

この本の著者古宮昇氏はアメリカで心理学を学ばれただけあって、いわゆるフツーの臨床心理士よりはだいぶ心と体の関係やエネルギー的なことやスピリチュアリティーもわかっていらっしゃる。

ロジャースの人間性中心療法を主軸にしながらフロイトの精神分析にも触れて様々な「転移」現象に言及していて、初心者心理セラピストには有益だ。

ハコミのトレーニングではこういう理論面についてはあまり触れないので、ハコミ・トレーニングだけを受けてセラピーを始めるのはやはり無理があるなぁと思った。

私は以前TPAのセラピスト・トレーニングで一応理論と外側の枠組みについて教わっていたのと、その頃興味の赴くままに濫読した心理系の本の知識を頼りに臨床を始めちゃったけど、今一度(一度と言わず何度でも)、心理療法の基礎の基礎を勉強することは大切だ。

この本は主に大学の臨床心理専攻やカウンセラー志望の学生向けに書かれている感じだが、中でバーバラ・ブレナンからの引用や、ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」からの引用などもあって、今どきの臨床心理の現場も少しずつ変わってきているんだなぁと思った。

また、地元くりのみ会のカウンセリングに対する姿勢も、実はちょっとどこまでの視野を持った人たちがやっているのか心配だったりしたけど、大きな隔たりはなさそうだと感じられたのでホッとした。

(私は全然アカデミックな勉強をしてないし、私のやっていることが理解してもらえるか、受け入れてもらえるのか心配だったのだ。)

この本、心理の専門職の方のみならず、援助職の人や、自分の内面をもっと知りたい人にもオススメなので、機会があったら読んでみてほしい。

 
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2009年3月19日 (木)

禅ZEN

春は花

夏ほととぎす

秋は月

冬雪さえてさびしかりけり

☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

昨日、映画「禅ZEN」を観た。

映画自体の出来はあまり良いとは思わなかった。

画面に力や深みがないし、カメラワークそのものの存在が気になったり、安易にCG使ったり、活舌の悪い俳優がいたり・・・

でも、禅についての入門と、道元禅師の生涯について少し知ることができたし、まあ、よしとしよう。

 
何よりも、映画の直後にエサレンのセッションをしたとき、道元様の座禅を組んでいる姿がずっと思い出され、心静かにすることと、「こだわりを捨てる」ことに意識が向き、気持ちよいセッションができたことが良かった。

結局、私のスピリチュアリティーの探求は、こういう渋い路線に落ち着きつつある。

見えない世界を追うよりも、「今ここ」にしっかりと生き、目の前にあるものごとをいかに純粋な目で認識できるかが何よりも重要なことだと思う。

今月からいよいよカウンセリング・心理療法を始め、自分の内面をクリアに保つことがより一層重要性を増し、緊急性も増した。

やはりボディワークだけのときよりも、直接人の「心に触れる」ことには重大な責任を感じ、より一層の精進が必要だなぁとヒシヒシと思う今日この頃だ。

セッションしながら、「自分が有能なセラピストだと思われたい」「クライアントに好かれたい」などというかすかな気持ちを垣間見ることしばしば。こういう欲望を手放し、常にニュートラルな自分を保つには日々のプラクティスが本当に必要だ。。。

☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

 
最近は朝の太極拳の後に参加者有志で「あえいうえおあお かけきくけこかこ・・・・」という発声練習なんかもやったりしてるが、昨日は突然みんなで「般若心経を読みたいね~」という話が出て盛り上がり、さっそく今朝、みんなで般若心経を読経した。

おおお~~~、スピリチュアリティーがまた一歩、私の日常に根付こうとしている!

素晴らしいfuji

昨日、映画「禅」を観ようと思ってたと同時に般若心経の話が出て、お彼岸のこの時期に読経を始められたことに何かとても貴重なタイミングーご縁ーを感じるのだった。

☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

P.S.

今朝はツツジの茂みの下で囀るウグイスを見た。

その脇では、野良猫で太極拳仲間のアイドル・ハナちゃんがウグイスを狙ってうずうずしてた。

どっちも可愛いけど、どっちの味方もできないよね・・・

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2009年3月10日 (火)

カウンセリング&心理療法始めます!

この度、Esalen(R) Bodywork Salon Kai~海~では「カウンセリング&心理療法」をメニューとして加えることに致しました。

「忙しい」という字は「心」を「亡くす」と書きます。

忙しい毎日の中で置き去りにされてしまった自分の心をもう一度取り戻すために、ときにはカウンセリング&心理療法で心を見つめる時間を取ってみてください。

私のセラピーは以下の3つのコンセプトに基づいています。

  1. 全ての人の中には自ら問題を解決し、自らを癒し、自己成長する力が備わっているという人間観を大切にしています。
  2. 過去の話をしたり分析したりすることではなく、「今ここ」の体験に気づき、その体験を深めることを大切にします。
  3. 心と体はひとつなので、より深い無意識の声を聴くために、体に意識を向けることを大切にします。

技法としては、来談者中心療法によるカウンセリングをベースに、体に意識を向けることと「今ここ」の体験を深めることで特徴的な「ハコミセラピー」を主軸に、ときには「ゲシュタルト療法」や「フォーカシング」等を織り交ぜて行います。

占いとか、誰かからのアドバイスをもらうということではなくて、自分自身の内側にある智慧と力に気づいていく体験をしてみませんか?

しばらくの間はお試し価格でご提供させて頂きますのでどうぞご利用下さいませ。

詳しくはHPをご覧下さい。
Esalen Bodywork Salon Kai~海~

※なお、今回のメニュー追加に伴って、他のコースの内容・価格なども若干変更いたしました。
 (基本的にお値段は若干下がっています。)

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ところで、2007年にサロンをオープンした当時は私にはエサレンしかなかったので、サロン名を[エサレンボディワークサロンKai~海~]としましたが、約2年経って、メニューも大分増えました。

そしてやっと「心と体」両面からのケアが出来る枠組みが出来上がりました。

そこで、これからは「心と体の両面からのケア」ということをコンセプトにした新しいHPを開設しました。

心と体のセラピースペースAlma Mater(アルマ・マーテル)

コース内容はKai~海~と基本的に一緒です。

今しばらくはサロンKai~海~と平行しての運営ですが、将来的にはAlma Materに統合していくことを考えています。

ご予約はどちらからでも構いませんので、どうぞこれからもよろしくお願いいたしますm(__)m

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2009年3月 9日 (月)

ハコミ・トレーニング修了!

今朝の太極拳のとき、今年初めてウグイスの鳴き声を聞いた。

今年も春がやって来たcherryblossom

春の卒業シーズン。ご他聞にもれず私もひとつ卒業(^^)v

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Hakomi 昨日、2年3ヶ月に及ぶハコミサイコセラピー・トレーニングコース(レベル2)を修了した。

はじめて「ハコミ」と言う言葉を耳にしたのは2002年。

「何それ?箱庭療法のこと?」と聞き返した覚えがある。

はじめてレベル1のワークショップに参加したのは2003年で、それから数えたら6年かけての修了だ。ふぅ~・・・。

☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

昨日の最後のエクササイズは、マインドフルネスの意識状態になった状態でふたつの言葉をプローブとして聞いてみるというものだった。

先ずひとつ目の言葉は

あなたはだれですか?

 
私は、この言葉を聞いて、「私はセラピストです」という言葉が思い浮かびつつ、それを打ち消すように「私はわたしです」という言葉が何度も何度も頭に浮かんだ。

これからセラピストとして本格的にやっていくぞという意気込みもあり、最初は「セラピスト」という言葉が浮かんだけれど、そんなの関係ない、「ただの私」の存在感のほうがとても大きくなっていった。

社会的条件のない、「ただの私」。

それはとてもとても心地よい。

 
私はかつて、「何者か」になりたかった気がする。

「私は~~~なわたしです」といろんな形容詞や所有格が欲しかった。

でも今では何も形容詞のない、何もヒモのついていないただのわたしが気持ちいい。

 
そして、私はわたしですらなくなってしまうことが更に気持ちいいように思う。

 

次に2番目の言葉を聞く。

あなたにとってハコミとは何ですか?

 
私の中から出てきた答えは、「空に至る道」だった。

ちょっと大袈裟で恥ずかしい(^_^;)

 
でも、私が興味を持ってやっていることは皆、空に至りたくてやっていることなのだ。

要するにスピリチュアル・プラクティスである。

宗教的修行を現代風にやっているだけ、という気がする。

 
ああ、それと、私にとってハコミとは、「今ここに生きる」ことのプラクティス。
(もちろん、エサレンも、クラニオも同様)

以前に比べて「今ここに」ゆったりとしていられる自分を発見する。

この数年取り組んできたことの成果が出ているね(^^)v

☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

さて、ハコミトレーニングは修了したものの、認定セラピストになるには更なる勉強が必要なのだけど、認定を待つまでもなく、いよいよ本格的にサイコセラピー(心理療法)を仕事として始めます。

詳しいご案内はまた改めてということで(*^_^*)

 

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2009年3月 5日 (木)

「おくりびと」を観た

話題の映画「おくりびと」を観た。

滝田洋二郎監督の作品は昔から大好きだった。

「木村家の人々」「ぼくらはみんな生きている」「陰陽師」。

その滝田監督の作品がアカデミー外国語映画賞を取ったのであれば見なければなるまい。

そして、納棺師という特殊な職業と「死」というテーマに興味をそそられた。

映画を観て、予想どおりの良い映画だった。

重いテーマをときには厳粛に、ときにはユーモラスに、そして叙情的に、温かく表現していた。

もっくんの演技はもちろん良かったが、山崎努がやはり秀逸。大好きな俳優さんだ。

(ヒロスエはいまいち。なんか薄っぺらい。まぁ、普通っぽくていいのかなぁ・・・)

映画について気のきいた感想文は書けないので、興味のある人はぜひ映画を観てほしい。

☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°

若かった頃、自分が絶対なりたくない職業は死刑執行人と火葬場の職員だと思っていた。

それほど自分にとって「死」は恐かったし、忌み嫌うものだった。
 
 
小学一年のとき、祖父が亡くなった。

別に悲しくもなんともなかった。

当時、私の田舎には納棺師なるものはなく、家族・親戚縁者・ご近所の方々で祖父の体を湯かんした。

それを遠目で眺めていた私は、葬儀の後しばらく、その場面が頭から離れなかった。

当時、これまた我が田舎ではまだ土葬だったので、祖父は家からすぐ近くの墓地へ埋葬された。

土中に葬られた祖父の姿を想像し、その体がだんだん朽ち果てていく様をつぶさに想像した。

そして、自分が死ぬことを想像し、自分の体が朽ち果てていくことを想像した。

死んで自分が無くなるということが理解できなかった。

そして、死が恐くて恐くて仕方なかった。

死への恐怖は片時も心から離れることがなく、でも、「死ぬのが恐い」とか、「死って何?」なんていうことを人に言うことはできず、ただ一人悶々と恐怖に耐え、一人きりになるといても立ってもいられなかった。

あまりの恐さに、そのうち自分でも「このままではまずい」と思い、なるべく死について考えないように、心の回路を切ることでその場をしのいだ。

*~*~*~*~*~*~*~*~

十代の後半の頃、よく自分が死ぬ夢を見た。

特によく憶えているのは、自分が処刑される順番を待っている夢。列はだんだん前へ進み、自分の番が回ってくる。

私は死への覚悟をしなければ、と思うのだが、どうしても覚悟ができない、という夢。

 

私の人生のテーマは「いかに死を受け入れるか」、ということかもしれない、なんて思うことがある。

人生の変わり目で過去の生活にピリオドを打つとき、小さな死を経験すると思う。

会社を辞めたとき、大好きな習い事を止めたとき、大好きな人と別れたとき・・・。

ひとつひとつ執着を手放す体験をすることは、死の予行演習をしているような気がする。

そして、自我を手放すことが楽になると、死ぬことも楽になるだろう、と思う。

(夜、よく眠れない人というのはある意味自我を手放すことがヘタなのだろうなぁと思う。そういう人は死ぬときもきっと苦労するだろうなぁと。。。)

なとど、つらつらと死について想うのだった。

 
「おくりびと」の原作「納棺夫日記」もぜひ読んでみようと思う。

 

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